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不信のとき

Author:伊藤 博文 ( Profile )
心に愛がなければ、いかなる言葉も相手の胸に響かない。
    〜聖パウロの言葉より〜

 ■ 2016/10/16 (日) 映画「SCOOP」を観てきました


「フライデー」とか「週刊文春」っていうのは編集部がこんな感じなのだろうか

普通は始業時間や終業時間が決められ、残業時間も管理されて
みたいなところで働いているので、こういう職場は新鮮に映る
ジャーナリストは自由な雰囲気があってうらやましい。
もっとも同業他社との競争やノルマはあるんだろうけれども・・・

ネットの何かのレビューにあったが、今年は邦画の当たり年だそうだ


まったく関係ない話だが、僕は亡くなられた方の死亡記事を読むのが好きです
厳密には下記の記事は「死亡記事」には当たらないのかもしれないが、こういう「人の
一生を数行にまとめた文章」を読むのが好きです。

【参考例】
ロバートショウ  生年月日 1927年8月9日 没年月日 1978年8月28日(満51歳没)

英国ランカシャー州(現グレーター・マンチェスター)ウェストホートンで生まれる。父親は医師。幼い頃から文学や詩に親しむ一方、ラグビーやハンドボール、陸上競技に没頭するスポーツ少年でもあった。

医師を志してケンブリッジ大学に進学するための奨学生試験を受けているうちに、先にロンドンの王立演劇学校の奨学生に合格した。ジョン・ギールグッドに師事して演技を学ぶうちにその面白さに取り憑かれ、卒業後は由緒あるオールド・ヴィク座の団員となり、1949年に初舞台を踏む。その後、ロンドンやブロードウェイの劇場に出演する。舞台俳優としての道を歩み始める一方で、学校教師・スポーツライター・新聞書評欄の担当記者などさまざまな職を経験、少年時代から文学に親しんだこともあって、文筆業としての才能も発揮し始める。

俳優としてより先に作家として有名になり、小説や戯曲は世界各国で出版され、『戦場はどこだ!』のように映画化された作品もある。

マーク・ロブソン監督によるアクション大作『アバランチエクスプレス』撮影終了直後の1978年8月28日、自宅のあるアイルランドのメイヨー州ツアーメイカディで車を運転中に心臓発作を起こし死去。51歳という若さでの急逝だった。

※死亡記事(しぼうきじ)とは、新聞などの記事のうち著名人の死を伝える内容のもののことである。訃報(ふほう)とも言い、日本では死亡記事のコーナーは「おくやみ欄」とも呼ばれる。発行者が独自に掲載を決めたものを指し、遺族などが依頼して広告として掲載されたものは死亡広告と呼んで区別する。





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 ■ 2016/10/05 (水) 先生


今度でも、中日ドラゴンズの社長が、
「広岡(達朗=元西武監督)を自分のほうにコーチとして連れていきたいんだが、
 何とか先生、なりませんか」
「だめ」
「そんなこと言わないで、なんとか。」
「だめ。まだそういう運命がきていない」
「尽力してください」
「尽力したって駄目だよ。つまり天運がまだこないんだから駄目だ。天運がそういうふうに決定してある」(「盛大な人生」中村天風述)

上のやりとりは、広岡さんが巨人を辞めて、ただ天風先生も御存命の頃、となると
おそらくは昭和41,2年の頃だろうか。その後、昭和50年代以降に名監督として名を成す広岡さんの将来を予見されたかのような言葉である。
徳の高い方というのは人の運命についてもある程度わかるのかもしれない。

僕が中村天風先生の名を知ったのは、やはりこの広岡さんの「意識革命のすすめ」を
読んでである。その時はただ漫然と読み流しただけだったが、何年かたって、
何かの雑誌である会社の社長が「私の1冊」ということで天風先生の本を挙げていた
それからこの人の本を少しずつ読むようになったのである。

私がインドへ行って三日目、山に行く道すがら先生からこういう質問が出た。
 「野原を歩いているときに、後ろをヒョイッと見たら虎が追いかけてきた。そこで、たまらぬと逃げ出して、どこか安全なところはないかなと、はるか向こうを見ると、大きな松の木が天にそびえている。これだっていうんで松の木に登って、チョイと下を見ると、その松の木の枝の出ている下は底知れない谷だ。
 ここなら虎も上がってこないわ、ここにしばらくいようと思っているとき、ヒョイと気がついて頭の上を見てみたら、頭の上から大きな蛇がお前を飲もうとして紅蓮の舌をペロッペロッと出して近寄ってきた。上に大きな蛇、下に虎。
 そこで、これは困ったというんで、どこかに逃げるところはないかと、ヒョイッと足元を見ると、谷底へ蔦葛が下がっていた。これだこれだ、この蔦葛にひとつぶら下がっていれば、蛇も虎もどうすることもできないっていうんで、蔦葛にぶらさがった。
 いいか。そうしたらば、やれ安心と思ったのもつかの間、手元に何か怪しき響きを感じてきたので、ヒョイと上を向いたら、なんと貴様、そのつかまっている蔦葛の根を、リスめが来て、ボリボリ食いおった、どうする?」こういう質問なの。
 そのままあなた方にも言う。どうする?
 そのとき私はね、あなた方と違って、何べんか、もう駄目だという生死の中をくぐり抜けた後の、いわゆる生死経験の者でありますから、あなた方ほどあわてませんでした。私、にっこり笑ったよ。その時に。どうせ、むこうの満足するほどの返事はできないかもしれないけど、私としてはこう考えた。何もあわてることはないじゃないか。切れるまでは生きているんだから、切れて落っこちてから後のことは、落っこちてから後に考えればいいと思ってね。
 「落っこちるまでは生きておりますから、そのまま安住しております」と言ったら、
 「偉いっ、それなら先々の見込みがあるぞ。それが人間の世のほんとうのありさまじゃ」
 これが人間の世のありさまなんです。気づかないために安心しているんではなく、気づいたときでも安心ができるようでないと、本物じゃないわけだね。ところが、あなた方、気づかざる場合には知らぬことで、我が心を煩わさないから何も考えないけれども、わかったら大変だ、ねえ。
 わかったら大変じゃいけないんですよ。わかっても、我れ関せずの心になり得れば、人間の世界に何の恐れも感じない、実に安心した状態が続いてくる。

まあ、こんなことを言われても凡夫にはなかなか簡単には理解できないのだが、
次のことはいかがだろう

「まあ、いいことだけを絶え間なく絵に描けよ、心に。」
 ただそれだけしか教わらないんだが、心の中で思ったり考えたりすることを、心のスクリーンに想像力を応用して描くと、それが期せずして強固な信念となる。信念となると、それがいつかは具体化するのが必然の神秘なんだ、ということが悟れたわけだ





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 ■ 2016/09/29 (木) ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」


秀才少年ハンスは町の人たちの期待を担って神学校に入学したが、そこで待っていたものは果てしない勉強のくり返しであった。神経衰弱で帰郷したハンスに向けられる失望と怒りと冷笑。淡い初恋も実ることなく、苦悩と恥辱の生活を送るハンスに訪れた安らぎの世界、それは死であった。

あらすじ
優秀な生徒として親や周囲から期待されるハンス・ギーベンラートは、地元の街からただ一人進学校に合格した。しかしそこでヘルマン・ハイルナーという芸術家気質の人物と親交を持つようになり、ハンスは進学校で学問に精進し、成績で一番になろうとする意志を次第に失くすようになる。ハイルナーとハンスは、生徒や教師の間から蔑まれるコンビとして認識される。ハイルナーは進学校を飛び出す小旅行事件を起こし、結果として放校される。次いで意気消沈し学問を放擲したハンスも進学校を離れ、地元に帰る。そして鍛冶職人の見習いとして働くが、ある日曜日の酒飲みで酒を多く飲んでしまい、次の日の朝、川に落ちて死んでしまったのを発見される…。

僕がこの本を読んだのはもう40年近く前の中学生の頃である。
夏休みの読書感想文に、この本を選んで作文したのを覚えている。

この間、BS朝日の「あらすじ名作劇場」をみていたら、
この「車輪の下」をやっていた。懐かしいなと思って見ていたのだが・・・・・






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 ■ 2016/09/23 (金) 聲の形


この前、新宿の映画館で観て来た

内容が少し重い、二番煎じ・・・と評価は芳しくないが、
評判の高い「君の名は」よりこっちのほうが・・・、と感じた。

登場人物は男の子も女の子もみな可愛らしい子ばかりだ。
特に難聴のヒロインの弟には不覚にも見とれてしまった

「君の名は」はもちろんいい映画なのだろうが、
52歳の自分にとってはもう完全に年齢制限をオーバーしてしまっている

その点、こっちはまだ、まだ・・・理解できる、というか

他人に酷いことをされ、その自分も別の他人に酷いことをした
今となってはただ神様にお許しを乞うだけ・・・・・

ここからは中年男の戯言

一次元は線、二次元は平面、三次元は立体
三次元とはいま私たちが暮らしている世界だ

一次元の世界は二次元の世界の一部、二次元の世界は三次元の世界の一部だ
だが一次元の世界では広がりがわからない、二次元の世界では厚さがわからない

一次元から二次元、二次元から三次元にいこうとすると
元の世界では消えたように見える

三次元ではわからない四次元の世界とは、それが時間の世界なのだそうだ
なるほど・・・そういえば、未来へも過去へも
それがあるとはわかっていてもここから行くことはできないものね

50年生きてきて、
薄い現在が厚く積み重なった「全体像」があらわになってきた
時間が見えるというのはこういうことか

今日は「妖女伝説」という漫画をよんでいた


















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記入なし 面白い話です! 今後実生活で使わせてもらいますw (16/10/01 17:42)


 ■ 2016/09/15 (木) 吝嗇


徳川家康のやり方というのは、下世話な言い方でいえば、「ケチ」である。家康は、とかく「ケチ」だった。国を治める場合も、戦争をする場合も、自分から大きな出費をしたり、無理をしたりすることはなかった。

歴史が好きな人ならば、織田信長や豊臣秀吉がどうやって天下を統一していったのか、その過程をだいたい知っているだろう。だが、家康については、相当な歴史好きであっても、実はあまり知らないのではないだろうか?

家康は幼少期の人質生活からスタートして、関ヶ原の戦いの前の時点で250万石という日本で最大版図を持つ大名になっている。しかし、家康がどうやって領地を広げていったのか、その過程はほとんど知られていないのだ。それもそのはずで、家康の出世の過程というのは、「面白くもなんともない」ため、あまり描かれることがないからだ。

信長であれば「桶狭間の急襲」や、「信長包囲網との息詰まる戦い」など、ドラマチックな要素が多々ある。秀吉の場合も「中国大返し」や、柴田勝家と雌雄を決する「賤ヶ岳の戦い」など、小説や映画のネタになりやすい、ストーリー性の高い出来事がある。
しかし家康の場合は、重要な戦いのほとんどが、“火事場泥棒”のようなものばかりなのである

信長や秀吉は、「天下を統一する!」という強い意志を持ち、周りにも公言し、そのための計画を立て、1つずつ実行に移してきた。
家康は違う。日頃は「私は野心も何もありません」という顔をして、周辺勢力に気を遣い、おとなしく暮らしている。近くに巨大な勢力がある場合は、その勢力に反抗せずに辛抱強く付き従った。自分からは、決して巨大な勢力に立ち向かっていこうとはしない。
しかし、何か事が起きたときには、ドサクサに紛れて、何食わぬ顔でおいしいところを持っていくのである。特に、巨大勢力が弱まったときには、容赦せずに版図を切り取った。

こうした行動を端的に表現すれば、「省エネ戦略」である。
敵が強いときにこれを破ろうとすると、大きな出費を強いられる。味方を増やしたり、家臣に大きな働きをさせるためには、それなりの対価が必要になってくる。
信長や秀吉は、この大きな対価を支払っていた。自分の勢力を拡大するために、敵方から寝返った武将たちの所領を安堵したり、有能な武将を引き抜くために、大きな褒賞を与えたりもしてきた。

もちろん、家康も同様のことをしてはいるが、その規模は非常に小さい。
家康は無理に版図を拡大せず、敵の大将が倒れたりして、権力の空白が生じたときに一気呵成に攻めたてたのだ。敵が弱っているときにこれを叩けば、あまり費用を掛けずに領土を拡張できる。味方の損害も少ない。いいことづくめである。

この、いわば「火事場泥棒戦法」の唯一の欠点は、自分から能動的には動けないということである。相手がいつ弱るのか、いつ失敗するのかは、わからない。いつ来るかわからない幸運を辛抱強く待たなくてはならないのだ。

だが、家康は若いころから、この“幸運”に恵まれていた。その最初の幸運は、桶狭間の戦い(織田信長対今川義元)である。

桶狭間の戦いの当時、家康は今川方の人質として今川軍に従軍していた。そして、敵勢力内での兵糧の搬入という危険な業務に従事させられていた。そんな中での、今川義元の討死である。

今川家が大混乱に陥っている中で、家康は人質状態から抜け出し、今川から独立。そして、今川の影響力が弱まった三河国を平定し、今川を討った信長と同盟を結んだのである。弱っている今川を踏みつけにして飛躍したのである

二度目の幸運は、「本能寺の変」である。本能寺の変の直前、家康は信長に招かれ、少人数の家臣のみで堺見物をしていた。そんな中で信長が光秀の襲撃を受けて自刃する。

本能寺の変の後、織田領では大きな混乱が起きる。とくに甲斐、信濃などの旧武田領は、わずか3カ月前に武田家の滅亡によって領有されたばかりである。それまで信長と協調の姿勢を取っていた北条氏が大軍で侵攻の構えを見せ、織田軍現地司令官の滝川一益などは命からがら近畿に逃げ延びた。

それに乗じる形で、家康も甲斐、信濃に侵攻するのである。家康は織田領だった甲斐をすぐに併合しようとし、河尻秀隆に甲斐を明け渡すように使者を送った。河尻秀隆はこれに激怒し、使者だった本多信俊を殺すが、河尻も蜂起した武田の遺臣に殺害された。

家康は“律義者”だったという評価をされることがあるが、このあたりを見ると、決してそんなことはなかったということがわかるはずだ。同盟者(というより主君に近い存在)である信長が死んだ途端に、その領地に侵攻しているのだ。

結果的に、家康は5カ国の領主となった。本能寺の変の後、飛躍したのは秀吉ばかりではなかった。派手さはないのだが、家康もこのときに大大名としての基盤を築いていたのである。

このように家康は、「果敢に版図を切り取っていく」のではなかった。「誰かが弱るのをじっと待っていれば、必ずその時が訪れる」という成功体験を、十二分に生かしていたのである。

家康のケチケチ戦略は、戦争面、外交面だけではない。内政面でも同様だった。

関ヶ原の戦いという“効率的な戦争”によって、徳川家には一族全体で800万石という広大な版図が転がり込んできた。家康は、この広大な版図をできるだけ削らずに、直轄領として残したのである。

これを一言で言えば「吝嗇家」ということだろう。

そもそも家康は、家臣に与えてきた所領が驚くほど少ない。「関ヶ原の戦い」までは、家康の家臣の中で10万石以上を与えられた家臣はたった3人だった。その3人とは、井伊直正、榊原康政、本多忠勝である。家康は「懐刀」と呼ばれた本多正信にも、関ヶ原以前には1万石しか与えていなかった(関ヶ原後に2万2000石になる)。

関ヶ原の後でさえ、徳川の家臣たちは決して多くを与えられなかった。家康は直轄領だけで400万石の大版図を手にしたが、譜代大名の筆頭である井伊家に与えられた所領はわずか30万石である。

単純な比較は難しいが、元の同僚だった前田利家に100万石近くを与え、子飼いの家臣たち、つまり加藤清正、福島正則、石田三成に次々に20万石前後の領地を与えた豊臣秀吉とは「真逆」の施策ともいえる。

こうした行動は、家康の性格によるものもあるのだろうが、それは結果的に、「家康の強み」にもつながった。

秀吉は裸一貫で成り上がった武将なので、家臣は皆、自分の代になって初めて付き従った者ばかりである。また、元同僚が家臣になったケースも多々ある。そのため、家臣に多くの物を与えないと、自分についてきてくれなかったのである。

一方、家康は、自分の周囲は、代々の家臣できっちり固めていた。彼らは、それほど大きな褒賞を与えられなくても家康から離れることはない。今川、織田に挟まれて瀕死だった松平家を知っている家臣たちは、わずかでも所領が増えれば、それで御の字だったのである。

また家康は、前述したように無理に版図を広げずに、敵が弱まったときに一気に侵攻をかけた。そのため、家臣に対する褒賞や、敵から寝返った武将への代償なども、それほど多くなくて済んだのである。

それにしても、400万石を手にしながら、筆頭家老にその1割も与えないというのは、性格的に家康が相当にケチだったということもあるだろう。だが、この家康のケチケチ戦略が、結果的に江戸時代を約270年も持たせた大きな要因となる。

徳川家は、武家政権(鎌倉、室町、安土桃山)の中では、もっとも直轄領が多かった。「直轄領が多い」ということは、「経済基盤が強い」ということである。徳川家の圧倒的な財力を前にしては、大名たちはちょっとやそっとのことでは手出しできなかった。

結局それが、約270年も江戸時代が続いた理由のひとつとなった


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サイコロ 本多信俊や鳥居元忠のような三河以来の家臣団が忠勤を励んだ結果ですね。でも、忠臣を捨て石にできるところに凄味があると・・・思います (16/09/26 18:01)
夜曲 歴史にうとい僕としては大変興味深く拝読させていただきました、どうもありがとうございます。 (16/09/16 00:51)


 ■ 2016/09/04 (日) 胸騒ぎ


大切な人の死や別れにはかならず「予感」がある

それは心の奥底の灰色の諦観のようなものだ

「次のオリンピックは見れるかなあ」
と父がつぶやいた
3年前の正月、家族でロンドンオリンピックの総集編をみていたときである
何気ない一言だったが
父の余命は長くない、とそのとき心の奥底に厭な予感がした
父はその時点で80歳を過ぎていたが健康状態には何の問題もなかった
だが、その時流れていた「風が吹いている」という曲が
まるで惜別のように哀しく聴こえていたのをよく覚えている

父は4ヶ月後、癌で逝去した


これとはまた少し違うが
人の顔をみて、何かがおかしいというか、奇妙な違和感を感じることがないだろうか

名前を出しては悪いが、昔の芸能人で岡田由希子さんという方がいた

初めてこの人の顔をみたときそんな感じがした
決して厭な予感というのではないが、しかし何かが引っかかるというか
うまくは言えないが何かが違うのだ

TBSのアナウンサーで自殺した川田亜子さん
(知っていらっしゃる方は少ないかもしれないが)
もそうだった
パーツは整っていて美人なのに、何かがおかしい、何かが・・・


無論僕は霊能者ではないし、そんな「予感」を感じることもごくまれにしかない
しかしそういう予感は後で当たっていることが多い
ものの本によれば、そういうのはどんな人間にも備わった普遍的な能力であるらしい。

しかも面白いことにはそういう力・・・いわゆる「第六感」は鍛錬する方法があって
実は鍛えれば鍛えるほど発達するとのこと
その方法は視覚聴覚触角などの五感をトレーニングで鋭敏にすることによって、
その奥にある第六感の誘導を容易にするということ

視覚であれば・・・
二人ひと組になって、一人のほうがあらかじめ物や本を雑多に置いておく
後ろを向いているもう一人のほうが一瞬だけそれを「見て」
後でどんな物があったか、どんなタイトルの本があったかを回答する
それだけでなくそれについての細かい形状について答えさせるというもの

聴覚であれば・・・
時計の秒針の音を距離を離して耳で追う
あるいは騒音けたたましい場所である一つの小さな音を特定して追いかけるというもの

触角であれば・・・
目を閉じて指先だけの感覚で碁石や色紙の色をあてるというもの

他にもいろいろあったかもしれないが、手元にその本がないので詳しいことは
忘れてしまった

再度、自分の例でいえば、仕事で自分のところに回ってきた決裁文書が
何も内容を見ていないのに、これはおかしいとわかることがある。
それはやはり、訓練とか鍛錬とかという堅い言葉でなくとも
もう何十年も同じことをやっているから自然とトレーニングができている
ということではないか






















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めとろん 私も霊能者ではないですけれど、如何ともしがたい予感、見たときには意味が分からない予知夢、それから本来見えないであろうものが白日にほかの人もいる中で見えた事もあります。体験した事がない人は脳が起こす幻覚という側面のみで説明しますね。もちろんそういう人はたくさんおられるのはわかります。それは理解したうえで、一寸違うだけどなあ〜と思います。時間移動は理論的に可能ですし、時空的な何らかの歪みというか飛び越えがあるのかな。 (16/09/04 15:28)
ななこ 私も上原美優さんに同じものを感じてました。暫くして生い立ちの再現ドラマを番組で見ましたが、酷い貧困と孤独の中で育った人でした。それを見て更に「この人、大丈夫なのか・・」と思っていたら・・。 (16/09/04 13:59)


 ■ 2016/08/29 (月) おすすめの短編


下記の短編は、私が以前読んで面白いと思った小説です
私は長編小説はほとんど読みませんが、短編小説は好きで、
喫茶店に入り浸って紅茶を飲みながら熟読しております

もし興味があれば、また時間があれば一読されるのも一興です
(できれば事前にあらすじを知ることなく)
特に最初に挙げた「最後の花束」は素晴らしい

私という人間はこういう小説が好きな人間です


乃南アサ・・・「最後の花束」(最後の花束(新潮文庫)より)
       「忘れ物」(家族趣味(新潮文庫)より)

青木知己・・・「Y駅発深夜バス」
        ザ・ベストミステリーズ―推理小説年鑑 2004(講談社)より

浅田次郎・・・「角筈にて」
       「伽羅」(鉄道員(集英社文庫)より)

連城三紀彦・・「足音」(背中合わせ(新潮文庫)より)

芥川龍之介・・「秋」(戯作三昧・一塊の土(新潮文庫)より)



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佐藤夫人 サプライズ・エンディングですね (16/08/31 21:53)


 ■ 2016/08/21 (日) 喫茶店


大きなパフェが有名な喫茶店で珈琲を飲みながら 
男の眠れない理由や仕事場での不当な扱いや私への過剰な賛辞や
政治家の汚さを男曰く詩的な表現を用いてとめどなく話す男に頷く私だった
(某巨大掲示板 某スレッドより転載)

僕が街中で好きなスポット、それは喫茶店だ

新聞や週刊誌を読みながら紅茶を飲んでいるあの時間が好きだ。
カフェにいると何気に聞こえてくる様々な会話。
時折コーヒーの味もそこそこに、耳を立ててしまう事はないだろうか?

「ルノアール」@・・・新宿西口地下街
仕事が忙しくなかった頃、退社後よくここで2時間くらい
一人でボーとしていたものだ。
都庁に近いこともあってサラリーマンが多かった

「ルノアール」A・・・歌舞伎町
ミラノ座でやっている深夜映画を観るまで、あるいは観た後の時間調整
だったが、あそこは場所柄、ヤクザとおぼしき人たちも多くいて
少し怖かった・・

スターバック・・・渋谷交差点
交差点が見渡せるこの有名な店
世界中のスタバの中で最も売上が多いといわれる渋谷駅ハチ公口スクランブル交差点前のスタバ。ここは平日他人が働いている日に休暇をとって行くのが好きだ。2Fから交差点を見下ろし、行き交う人々を観察しながらお茶する人たち。なかなか気持ちいい。

珈琲が美味しい店。


昔、田舎で通っていた高校の近くに「来夢来人」という喫茶店があった。
高校時代を振り返ると何故かふと思い出す・・・

喫茶店とは小さなドラマの舞台ですね



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ななこ >サイコロさん 珈琲屋のカレーが美味しい・・ カレーを美味しくする隠し味に「コーヒーを入れる」と、TVで何度か見たことあります。珈琲屋さんだからコーヒー使ってるのかもですね^^ (16/08/28 11:08)
サイコロ まことに、そうですね^なぜか・・・珈琲屋のカレーが美味かったりするのも、うれしい発見です^ (16/08/23 22:37)


 ■ 2016/08/09 (火) NCAA



「頑張った人には、NCAA.」
「頑張れなかった人にも、NCAA.」
というスポーツドリンクのCMがあった。

僕はこのCMが好きだった
上の1行だけだと、頑張って成果を上げたひとだけが褒美をもらえる
成果至上主義になってしまうが
下の1行でうまくいかなかったひとのこともそっと救ってあげている

「頑張れなかった人」の中には
力一杯ベストを尽くし、負けたひと・・・ばかりではない
努力をしなかったサボリ魔、不運なひと、愚かなひと・・・
あらゆるひとが入っていると僕は思っている

人の一生など実はどれもあまり変わりがない
首相だろうがサラリーマンだろうがひきこもりだろうが、だ
舞台や衣裳が多少違うだけ
中身はどれも同じだ

つらいことは山のように待ち構えているに違いない
先はまだまだ長い
他人に追い抜かれてもいいから
疲れたら休んで、それから歩き出せばいい














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まあ なんだか 人生悟った人みたいだなあ (16/08/16 17:14)
ななこ マクロ的に見れば、人間なんて似たり寄ったり。大差ない。そのことに気付いていない人が、他人への嫉妬にもがいたりするんだと思う。 (16/08/11 09:27)


 ■ 2016/07/24 (日) やがて笛が鳴り、僕らの青春は終わる


私は、人びとには誰にでも本当は自分の一生の運命を予め知ることができるのだということをここで記すことにしよう。私は例によって、自分の生涯を二十歳の時に予言していたある男の例を挙げて、このことを説明してみよう。

彼はフランスの農夫だった。彼は二十歳のとき、すでにつぎのように自分の生涯の運命を語っていた。

〜彼には二年後の七月二十日、ある友なる者が西から現れ、その者は彼の五十二歳の六月まで彼と一緒にいるだろう。小さな友がこれに続いて三人現れるが、そのうちひとりは彼の三十五歳のなかばに彼に涙を与えるだろう。また彼は、二十九歳の秋に水の底に彼の家が沈むのを見るに違いない。彼は三十二歳の春には、南十字星がよく光るのをみることになるだろう。〜

彼は自身の「予言」どおり、二十二歳の七月に彼の村から西方にある同じ農村の娘を妻にし、妻は彼が五十二歳のとき世を去るまで一緒に暮らした。子供(小さい友)は3人生まれ、そのうちひとりは彼の三十五歳のときに病死し、彼に「涙を与えた」。
彼の村は彼の二十九歳のときに大きな洪水に見舞われた。彼の家は予言どおり水の底に沈むことはなかったが、農作物は「水の底に沈み」全滅の被害を受けた。また、彼はこの洪水後三年あとの三十二歳のときには、遺産相続人のない親類の土地を相続したが、この土地は小高い丘の南向きの斜面の土地だったのである。

↑これは僕の以前読んだ本に書いてあった話
運命が決まっているとなれば、僕たちは努力しなくてもいい、努力しても無駄・・・
そんなことはないか、決まっているとしてもそうでないとしても
僕たちは歩いていかなくてはならない

さっきテレビで高校野球の予選を見ていた
僕らが学校の甲子園出場や東京の大学進学に一喜一憂していたのは
もう遠い昔
画面に映っているのは僕らの世代の子供の世代よりさらに下の世代だ
だが彼らもいつの日か青春時代を懐かしく思い出す日がくるに違いない

この世を去る時、
僕らは自分の一生を走馬灯のように「観賞」しなければならないらしい。
その時にいい人生だったと振り返れるかどうか
そうであればいいけど













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