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不信のとき

Author:伊藤 博文 ( Profile )
心に愛がなければ、いかなる言葉も相手の胸に響かない。
    〜聖パウロの言葉より〜

 ■ 2016/07/24 (日) やがて笛が鳴り、僕らの青春は終わる


私は、人びとには誰にでも本当は自分の一生の運命を予め知ることができるのだということをここで記すことにしよう。私は例によって、自分の生涯を二十歳の時に予言していたある男の例を挙げて、このことを説明してみよう。

彼はフランスの農夫だった。彼は二十歳のとき、すでにつぎのように自分の生涯の運命を語っていた。

〜彼には二年後の七月二十日、ある友なる者が西から現れ、その者は彼の五十二歳の六月まで彼と一緒にいるだろう。小さな友がこれに続いて三人現れるが、そのうちひとりは彼の三十五歳のなかばに彼に涙を与えるだろう。また彼は、二十九歳の秋に水の底に彼の家が沈むのを見るに違いない。彼は三十二歳の春には、南十字星がよく光るのをみることになるだろう。〜

彼は自身の「予言」どおり、二十二歳の七月に彼の村から西方にある同じ農村の娘を妻にし、妻は彼が五十二歳のとき世を去るまで一緒に暮らした。子供(小さい友)は3人生まれ、そのうちひとりは彼の三十五歳のときに病死し、彼に「涙を与えた」。
彼の村は彼の二十九歳のときに大きな洪水に見舞われた。彼の家は予言どおり水の底に沈むことはなかったが、農作物は「水の底に沈み」全滅の被害を受けた。また、彼はこの洪水後三年あとの三十二歳のときには、遺産相続人のない親類の土地を相続したが、この土地は小高い丘の南向きの斜面の土地だったのである。

↑これは僕の以前読んだ本に書いてあった話
運命が決まっているとなれば、僕たちは努力しなくてもいい、努力しても無駄・・・
そんなことはないか、決まっているとしてもそうでないとしても
僕たちは歩いていかなくてはならない

さっきテレビで高校野球の予選を見ていた
僕らが学校の甲子園出場や東京の大学進学に一喜一憂していたのは
もう遠い昔
画面に映っているのは僕らの世代の子供の世代よりさらに下の世代だ
だが彼らもいつの日か青春時代を懐かしく思い出す日がくるに違いない

この世を去る時、
僕らは自分の一生を走馬灯のように「観賞」しなければならないらしい。
その時にいい人生だったと振り返れるかどうか
そうであればいいけど













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