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不信のときAuthor:伊藤 博文 ( Profile ) 心に愛がなければ、いかなる言葉も相手の胸に響かない。 〜聖パウロの言葉より〜 |
■ 2016/09/15 (木) 吝嗇 |
徳川家康のやり方というのは、下世話な言い方でいえば、「ケチ」である。家康は、とかく「ケチ」だった。国を治める場合も、戦争をする場合も、自分から大きな出費をしたり、無理をしたりすることはなかった。
歴史が好きな人ならば、織田信長や豊臣秀吉がどうやって天下を統一していったのか、その過程をだいたい知っているだろう。だが、家康については、相当な歴史好きであっても、実はあまり知らないのではないだろうか? 家康は幼少期の人質生活からスタートして、関ヶ原の戦いの前の時点で250万石という日本で最大版図を持つ大名になっている。しかし、家康がどうやって領地を広げていったのか、その過程はほとんど知られていないのだ。それもそのはずで、家康の出世の過程というのは、「面白くもなんともない」ため、あまり描かれることがないからだ。 信長であれば「桶狭間の急襲」や、「信長包囲網との息詰まる戦い」など、ドラマチックな要素が多々ある。秀吉の場合も「中国大返し」や、柴田勝家と雌雄を決する「賤ヶ岳の戦い」など、小説や映画のネタになりやすい、ストーリー性の高い出来事がある。 しかし家康の場合は、重要な戦いのほとんどが、“火事場泥棒”のようなものばかりなのである 信長や秀吉は、「天下を統一する!」という強い意志を持ち、周りにも公言し、そのための計画を立て、1つずつ実行に移してきた。 家康は違う。日頃は「私は野心も何もありません」という顔をして、周辺勢力に気を遣い、おとなしく暮らしている。近くに巨大な勢力がある場合は、その勢力に反抗せずに辛抱強く付き従った。自分からは、決して巨大な勢力に立ち向かっていこうとはしない。 しかし、何か事が起きたときには、ドサクサに紛れて、何食わぬ顔でおいしいところを持っていくのである。特に、巨大勢力が弱まったときには、容赦せずに版図を切り取った。 こうした行動を端的に表現すれば、「省エネ戦略」である。 敵が強いときにこれを破ろうとすると、大きな出費を強いられる。味方を増やしたり、家臣に大きな働きをさせるためには、それなりの対価が必要になってくる。 信長や秀吉は、この大きな対価を支払っていた。自分の勢力を拡大するために、敵方から寝返った武将たちの所領を安堵したり、有能な武将を引き抜くために、大きな褒賞を与えたりもしてきた。 もちろん、家康も同様のことをしてはいるが、その規模は非常に小さい。 家康は無理に版図を拡大せず、敵の大将が倒れたりして、権力の空白が生じたときに一気呵成に攻めたてたのだ。敵が弱っているときにこれを叩けば、あまり費用を掛けずに領土を拡張できる。味方の損害も少ない。いいことづくめである。 この、いわば「火事場泥棒戦法」の唯一の欠点は、自分から能動的には動けないということである。相手がいつ弱るのか、いつ失敗するのかは、わからない。いつ来るかわからない幸運を辛抱強く待たなくてはならないのだ。 だが、家康は若いころから、この“幸運”に恵まれていた。その最初の幸運は、桶狭間の戦い(織田信長対今川義元)である。 桶狭間の戦いの当時、家康は今川方の人質として今川軍に従軍していた。そして、敵勢力内での兵糧の搬入という危険な業務に従事させられていた。そんな中での、今川義元の討死である。 今川家が大混乱に陥っている中で、家康は人質状態から抜け出し、今川から独立。そして、今川の影響力が弱まった三河国を平定し、今川を討った信長と同盟を結んだのである。弱っている今川を踏みつけにして飛躍したのである 二度目の幸運は、「本能寺の変」である。本能寺の変の直前、家康は信長に招かれ、少人数の家臣のみで堺見物をしていた。そんな中で信長が光秀の襲撃を受けて自刃する。 本能寺の変の後、織田領では大きな混乱が起きる。とくに甲斐、信濃などの旧武田領は、わずか3カ月前に武田家の滅亡によって領有されたばかりである。それまで信長と協調の姿勢を取っていた北条氏が大軍で侵攻の構えを見せ、織田軍現地司令官の滝川一益などは命からがら近畿に逃げ延びた。 それに乗じる形で、家康も甲斐、信濃に侵攻するのである。家康は織田領だった甲斐をすぐに併合しようとし、河尻秀隆に甲斐を明け渡すように使者を送った。河尻秀隆はこれに激怒し、使者だった本多信俊を殺すが、河尻も蜂起した武田の遺臣に殺害された。 家康は“律義者”だったという評価をされることがあるが、このあたりを見ると、決してそんなことはなかったということがわかるはずだ。同盟者(というより主君に近い存在)である信長が死んだ途端に、その領地に侵攻しているのだ。 結果的に、家康は5カ国の領主となった。本能寺の変の後、飛躍したのは秀吉ばかりではなかった。派手さはないのだが、家康もこのときに大大名としての基盤を築いていたのである。 このように家康は、「果敢に版図を切り取っていく」のではなかった。「誰かが弱るのをじっと待っていれば、必ずその時が訪れる」という成功体験を、十二分に生かしていたのである。 家康のケチケチ戦略は、戦争面、外交面だけではない。内政面でも同様だった。 関ヶ原の戦いという“効率的な戦争”によって、徳川家には一族全体で800万石という広大な版図が転がり込んできた。家康は、この広大な版図をできるだけ削らずに、直轄領として残したのである。 これを一言で言えば「吝嗇家」ということだろう。 そもそも家康は、家臣に与えてきた所領が驚くほど少ない。「関ヶ原の戦い」までは、家康の家臣の中で10万石以上を与えられた家臣はたった3人だった。その3人とは、井伊直正、榊原康政、本多忠勝である。家康は「懐刀」と呼ばれた本多正信にも、関ヶ原以前には1万石しか与えていなかった(関ヶ原後に2万2000石になる)。 関ヶ原の後でさえ、徳川の家臣たちは決して多くを与えられなかった。家康は直轄領だけで400万石の大版図を手にしたが、譜代大名の筆頭である井伊家に与えられた所領はわずか30万石である。 単純な比較は難しいが、元の同僚だった前田利家に100万石近くを与え、子飼いの家臣たち、つまり加藤清正、福島正則、石田三成に次々に20万石前後の領地を与えた豊臣秀吉とは「真逆」の施策ともいえる。 こうした行動は、家康の性格によるものもあるのだろうが、それは結果的に、「家康の強み」にもつながった。 秀吉は裸一貫で成り上がった武将なので、家臣は皆、自分の代になって初めて付き従った者ばかりである。また、元同僚が家臣になったケースも多々ある。そのため、家臣に多くの物を与えないと、自分についてきてくれなかったのである。 一方、家康は、自分の周囲は、代々の家臣できっちり固めていた。彼らは、それほど大きな褒賞を与えられなくても家康から離れることはない。今川、織田に挟まれて瀕死だった松平家を知っている家臣たちは、わずかでも所領が増えれば、それで御の字だったのである。 また家康は、前述したように無理に版図を広げずに、敵が弱まったときに一気に侵攻をかけた。そのため、家臣に対する褒賞や、敵から寝返った武将への代償なども、それほど多くなくて済んだのである。 それにしても、400万石を手にしながら、筆頭家老にその1割も与えないというのは、性格的に家康が相当にケチだったということもあるだろう。だが、この家康のケチケチ戦略が、結果的に江戸時代を約270年も持たせた大きな要因となる。 徳川家は、武家政権(鎌倉、室町、安土桃山)の中では、もっとも直轄領が多かった。「直轄領が多い」ということは、「経済基盤が強い」ということである。徳川家の圧倒的な財力を前にしては、大名たちはちょっとやそっとのことでは手出しできなかった。 結局それが、約270年も江戸時代が続いた理由のひとつとなった |
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コメント
サイコロ 本多信俊や鳥居元忠のような三河以来の家臣団が忠勤を励んだ結果ですね。でも、忠臣を捨て石にできるところに凄味があると・・・思います (16/09/26 18:01)
夜曲 歴史にうとい僕としては大変興味深く拝読させていただきました、どうもありがとうございます。 (16/09/16 00:51) |
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