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不信のとき

Author:伊藤 博文 ( Profile )
心に愛がなければ、いかなる言葉も相手の胸に響かない。
    〜聖パウロの言葉より〜

 ■ 2016/06/19 (日) 育てる


子供を、それも女の子を自分の手で育ててみたいと思ったことがある

家と金ならある
3つくらいの身寄りのない小さな女の子を引き取り、
時間給で家政婦を雇っていないときの世話をしてもらう
学校に進学させて就職させる、相手を見つけて結婚させて・・・
そこで終わり、でいい

なぜそんな妄想を抱いたか、というと
以前、大阪で水商売の若い女性が自分の子供をマンションに置き去りにし
飢え死させた、そんな事件があった
俺なら寝場所と食べ物くらいは出してやれる、いや学校に進学だってさせてやれる
そんな単純な理由だ

ヤフー知恵袋に
「僕は独身男性ですが、身寄りのない女の子を引き取って育ててみたいです」
そんな質問をだしてみたところ
文字通り「大炎上」してしまった
おそらくこのサイトの「父親・母親」の方からも
「ふざけるな、この野郎」だろう
あたりまえだ、皆さんのおっしゃるとおりです

僕は子育ての苦労もつらさも何も知らない
だが・・・少なくとも男と遊び歩いて子供を飢え死にさせる親よりは
まだ僕のほうがまし
これも事実だろう
















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めとろん だからはじめたいなあと願望を語る人に・勝ち誇ったように反論するのもおかしな話です。足長基金とかもありますし、そのように考える資産家はおおいんじゃないでしょうか。 (16/06/20 01:08)
めとろん 子供は、自分とめぐりあったっとき(=生んだとき、でも同じ)はまだ何も始まってない0の状態。そこから計り知れない物語が始まっていくのです。よって、その大河ドラマをはじめてみたい潜在的欲求は、かけがえのないたった一つの人生の使い方としてやっていたいと思うのは全くもっておかしいことでもなんでもないです。子育ての駒を進めて行った人もはじめからなにもかもわかっていたなんてことはなくて、 (16/06/20 01:06)
はづき(関東方面隊) まぎれもない事実であります(`∇´ゞ (16/06/19 22:27)


 ■ 2016/06/12 (日) 太宰治


金曜日
午後11時頃帰宅
ソファに寝転んで、
NHKBSでトムクルーズの「アウトロー」を観ていた
うとうとして、ふと目が覚めるとエンドロールが流れている
午前2時だった

そのままテレビをつけていると
今度は「太宰治」を主人公にした裁判形式の番組をやっていたので
それを観ていた
太宰治は意外に日本人にはファンが多い
僕も太宰の小説はそれほど読んだことはないが
それでも「斜陽」や「津軽」「ヴィヨンの妻」「女生徒」くらいは
読んだことがある
蕩けるように優しい文章を書く人である

しばらく観ていたがつまらなかったので
自室に布団をしいて寝た












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ななこ 今でも青森では津島家は名家なんですよね?私は関西の人間なので、青森のことは全然知らないのですが。 (16/06/18 20:57)


 ■ 2016/04/29 (金) 今夜の東京は涼しい


50を過ぎてテレビはほとんどNHKしか見なくなった

僕が必ず見ているのは「ドキュメント72時間」「歴史秘話ヒストリア」
「ワールドニュース」と「MLB」だ

「真田丸」も面白いし、さっきまで見ていたドラマ10「コントレール」もいい

今夜の東京は涼しい
網戸にしていると寒いくらいだ

だが暑くもなく寒すぎもない今の時期、いまの時間の東京が好きだ
東京の電飾の海は美しい

ヤフーのオークションで大口径の望遠鏡がでていた
あれを買って田舎の実家において見るか





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めとろん 五月中旬東京にいきますよ〜^^ (16/05/03 22:15)


 ■ 2016/04/17 (日) 被災


大災害の被災地に勤務していたことがある。

あたりまえだった何もかもがその日から配給制になった

水が止まり、職場や社宅の駐車場に簡易トイレが設置された
風呂に入れず、2週間くらいして近所(といっても3kmくらい離れた)
の小学校の校庭に自衛隊が設営したテント浴場に3時間待ちで入れてもらった

食料も同じだった
イトーヨーカド―の前に長い行列をつくり、4時間待った
ようやく中に入ると明らかに安物の画一品がそれも少ししかなかった

職場で配給されるレトルト米飯とふりかけが楽しみで

頼みのコンビニも開店休業状態
それでも上司に命じられて勤務時間中に市内のコンビニで開いているところがないか
探し回ったものだ

僕は車をもっていなかったがガソリンの供給も大変だったらしい

屋根の下で布団で寝れるのはありがたいことだということを
僕は生れてはじめて学んだ

2か月くらいして東京に帰ると、いつもの東京だった
災害のさの字も感じられないような花の都・大東京である

被災地が現状復旧するまで長い時間がかかったが、
夜寝る前の一瞬のひとときが安息だったことを思い出す

僕が神を信じるようになったのはあの頃から・・・













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 ■ 2016/03/26 (土) 卒業式


僕は今52歳。独身で結婚したこともない。
孤独に耐えうる性格であれば、都会の独身生活ははっきりいって楽だ。

うるさい配偶者も小さな暴君もいない
さらに下世話な言い方をすれば定職を持っているかぎり
浪費さえしなければ、雪だるまのように金は貯まっていく。

そんな独身者から見て既婚者がうらやましく思える一日がある

この間、近所の小学校で卒業式があった
盛装した親子3人が卒業証書を入れた筒を持ちながら、
紅白の幕を飾った講堂から次々とでてくるのを見かけ
心底うらやましいと思った

子育ての苦労が報われる日
既婚のひとにはこんな感激を味わう日が何回かあるに違いない

まあ人生は1回きり、2つの生き方を同時にはできないからね


そう思いながら、僕は今日も10Fの職場に泊まる
寝室は所長室の大きなソファ
明日の朝食は珈琲とハンバーガーを買ってきて、誰もいない職場で食べる

















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サイコロ 明日から仕事なのに・・・ふと目が覚めて・・・日記を見させてもらっています。私ごとですが・・・先日、二男の(小学校)卒業式でした・・・忙しいときは、職場で寝起きされるのですね^私も昔は職場に泊まり込んで仕事をしていたこともありましたが・・・最近は・・・ある意味、羨ましいです^ (16/03/28 03:44)


 ■ 2016/02/27 (土) 喧嘩しないで暮そやないか。


喧嘩しないで暮そやないか。すえは互いにこの姿(骸骨の絵)

私の今の上司のデスクには、この「標語」が貼り付けてある

武田信玄の「風林火山=疾きこと風の如し、静かなること林の如し、侵略すること火の
如し、動かざること山の如し」、あるいは徳川家康の「厭離穢土、欣求浄土」のようなどうやらこれがこの人の「旗印」であるらしい。

毎日決裁を持っていくと必ずこの標語が目に入る。
気になってネットでひいてみたら
伊達正宗に仕えた雲山従人という禅坊主の一句だそうだ。

なるほど、しかし確かに一理はある
実社会で働いていると、いや人生を生きていると
腹の立つことはいくらでも出てくる
私の職場でも声を荒げての怒鳴り合いはしょっちゅうだ

しかしその怒りとはいったいどれほどのものか、気が静まって思い返してみれば
たいしたことではないことがほとんどだ。

しょせん人生は長くても80年程度
無意味な「怒り」は時間と労力のムダだ
どうせ最期は誰もみな「骸骨」になるのだから・・・・









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 ■ 2016/01/30 (土) 海戦


しかし「デバステーター」雷撃機のこの犠牲は、おもわざる成果をあげていたのだ。
戦闘のまっただなかで、これらの機は、おそるべき零戦を海面すれすれにまでひきよせ
これによって日本空母の上空をガラ空きにし、爆撃機の攻撃に絶好の機会をあたえたからである。
米雷撃機を追い払おうと戦っているうちに、日本軍は空を見上げるのを忘れてしまった。高い雲のかげにかくれて、雷撃機のあとについてきた急降下爆撃機が近づいていた。

このときマクラスキー大佐は、眼下にかすかな一本の白い筋を発見した。
日本駆逐艦の航跡である。さらに断雲の下から三隻の大艦がすべりだしてきた。
小さい炎とこまかい点々が、その周りに見え、攻撃をうけていることがわかった。
操縦席からじっと目をこらした。空母「加賀」「赤城」を先導する「蒼竜」が確認できた。そのうしろの「飛竜」は雲にさえぎられてまだ見えない。
               ・・・「ミッドウエイ」

この日の功労者はウデヘルム少佐のひきいた編隊だった。
わずかばかりの護衛戦闘機は「隼鷹」の零戦と交戦してやられてしまった。
かれは前進をつづけ、ついに「翔鶴」といまなお炎上中の「瑞鳳」とにめぐりあう幸運をつかんだ。零戦が襲いかかってきて、ウデヘルム機は海上に不時着水した。ほかにも
「ドーントレス」一機が撃墜され、二機は損傷をうけて帰途についた。
しかしJE・ポーズ大尉にひきいられた残りの飛行機は「翔鶴」上空にたどりついた。
猛烈な砲火をくぐりぬけて450キロ爆弾三発を命中させた。
               ・・・「サンタクルーズ沖航空戦」

午前9時29分、後日「こんどこそわたくしも泳がなければなるまいと覚悟した」と回想したクリフトン・スプラグー提督は日本艦隊が急に反転、北方の煙霧のなかに消え去るのを見た。「わたくしは自分の目を信じられなかった。わたくしの戦闘ボケした頭脳はこの事実がすぐには理解できなかった。」
               ・・・「レイテ」











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 ■ 2016/01/17 (日) サライ・酔人・モノローグ


僕は最近、就寝時に赤ワインを飲むようになった
五十を過ぎてアルコールがないと夜眠れなくなった
スーパーで売っている2,000円くらいの安ワインを種類を変えて飲んでいる
いろいろな種類を試してみたが、最近少し辛口でうまいワインを見つけた

僕はまた最近、白米の代わりに「玄米」を食している
玄米は慣れないとそのパサつきが気になるが、食べ慣れてみると結構うまい
納豆やあるいは卵かけご飯にしてみると食が進む

僕の趣味は「片付け・収納」だが「ミニマリスト」ではない、
僕は職場でも自宅マンションでもせっせと「片付けて」いる

最近の僕が好きなものは明智小五郎・金田一耕助・シャーロックホームズだ
今見ているのはNY版シャーロックホームズでそれはそれで面白い
先週NHKで満島ひかり版明智小五郎の30分ドラマをやっていて、これもよかった

東京の夜も午前3時を過ぎるとつかのま静かになる

バス事故で亡くなった早大の女性が可愛いと評判になっている
ご冥福を祈ります







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めとろん アルコールの中では赤ワインが一番好きです〜思い出したときに飲む程度。一回にボトル半分くらい。 (16/01/17 14:42)


 ■ 2015/12/29 (火) 【12月9日】1936年(昭11) 沢村栄治VS景浦将、初の「王座決定戦3番勝負」


 【巨人5−3阪神】4回表無死二、三塁、カウント1−3。阪神の先発投手にして、5番に座る“猛将”景浦将(かげうら・まさる)は、背番号14のドロップ(タテのカーブ)に的を絞っていた。

マウンド上の巨人・沢村栄治投手が5球目に選んだのは、やはりドロップだった。前の打席で景浦に自慢の「まっつぐ」(直球のことを沢村はこう言ったという)をセンターオーバーされた記憶が、川の急流に例えられた落差の大きい「懸河のドロップ」を選択させたといっていい。

 吉原と並ぶ色里「洲崎パラダイス」として知られる遊郭に接する東京市城東区南砂町(現東京都江東区新砂)に11月29日に開場したばかりの洲崎球場。最低気温は2度。時折氷雨がそぼ降る中、スタンドに陣取った当時としてはかなり奇特な約1800人の職業野球ファンは次の1球を待った。

 バットを担ぐように構える景浦の身長は1メートル70もなかったが、どっしりと腰を落とし眼光鋭い視線は迫力満点。1メートル80の沢村はその気迫に押されているのが自分でも分かった。腕が振れずに投じたドロップはいつもの落差がなく、ベルト付近の絶好球となった。

 景浦が見逃すはずもない。高々と上がった打球は、打った瞬間それと分かる左翼席最上段に突き刺さる3点本塁打。141回3分の1を投げたこの年の沢村が、初めて浴びたスタンドインの大ホームランだった。

 講談や漫才の題材としても取り上げられた、洲崎での沢村対景浦の一騎打ち。巨人−阪神戦が「伝統の一戦」と呼ばれるようになったのは、この名勝負が起源と言っても過言ではない。

 沢村はこの3点のみに阪神を抑え、10安打されたものの11奪三振で職業野球初の「王座決定戦」第1戦に完投勝利。試合時間はなんと1時間15分。午後2時に始まって、3時過ぎには終わっているという早さ。当時の平均試合時間が1時間20分程度だから標準といったところ。今のように複雑なサインもなければ、タイムを頻繁にとることもない。力いっぱい投げ、力いっぱい打つ、そんな単純明快な野球だった。

 続く第2戦、一気に勝負を決したい巨人は再度沢村が先発。6回まで投げたが5失点で敗戦投手(巨人3−5阪神)となった。最終決戦となった12月11日の第3戦、沢村は先発前川八郎投手の後を受けて、リリーフで5回を投げ無失点。第1戦に3安打されるなど、景浦に手を焼いた沢村だったが、第3戦ではリベンジ。「まっつぐ」で3球三振に仕留めた。巨人は4−2で阪神を破り、勝利投手となった沢村は巨人の職業野球初代チャンピオンの原動力となった。

 実は沢村、シーズン中盤からずっと右肩痛に悩まされていた。王座決定戦前に巨人・藤本定義監督に「投げさせてください」と直訴した沢村に、巨人が決定戦中に合宿をはった東京・呉服橋の旅館の主人が用意したものは「痛みによく効く」とされた馬肉のかたまり。なぜ効くのか、医学的根拠はないが、就寝の際、沢村はそれを右肩にあてて眠り、3連投を演じたのだった。

 伝説の強打者景浦は実働5年で打点王2回、首位打者1回を獲得。投手としても36年秋には防御率1位に輝いているが、気ままな性格で、気分が乗らないときはさっぱり。打撃の通算成績は323試合で307安打25本塁打、打率2割7分1厘。伝説の割には物足りない数字なのは、この性格がかなり災いしている。

 投手としては56試合で27勝9敗。274回3分の1を投げ、防御率1・58というのも凄いが、被本塁打2本というのも驚きの数字。「速いというより球質の重い投手だった」と、巨人の名二塁手・千葉茂は回想している。

 景浦は太平洋戦争中の43年(昭18)応召され、終戦まで3カ月を切った45年5月20日、フィリピン・カラングラ島で戦死。戦闘で敵の銃弾に斃れたのではなく、戦病死だったという説もある。永遠のライバル沢村は陸軍に3度目の召集をされ、景浦が命を落とす半年前の44年12月2日、同じフィリピンに向かう途中に台湾沖で乗っていた輸送船が米潜水艦に撃沈された。生存者はなく、最期の状況すら不明という。職業野球初期の投打のビッグスター2人を戦火の中で失ったことは、日本の野球界にとって痛恨の極みであった。 

 現在の日本シリーズに相当するといえる王座決定戦の開催は複雑な公式戦のシステムから生まれた。職業野球=プロ野球が本格的にスタートしたこの年、公式戦は1リーグ7球団による総当たり戦を4回、トーナメント戦を2回行い、それぞれ1回ごとに優勝チームを決め、その総合得点で年間優勝を決めるルールだった。単独優勝にはポイント1点、同率Vには0・5点ずつという配分で、その結果巨人と阪神が2・5点ずつの同点となり、王座決定戦が行われることになった。「第2次東京リーグ」と銘打たれた4回目のリーグ戦が終了して中1日で第1戦という慌しい日程だった。


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記入なし 講談の「英国密航」聞いたことあるかい?毛利の殿様は好きだよ♪ (16/01/02 23:03)
伊藤 博文 アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」って読んだことあるかい。僕も薩長土肥よりフランス流の徳川幕府が出来上がれば面白かったのにと思うね。 (16/01/02 00:18)
記入なし 長州藩は嫌いだ! (16/01/01 20:31)


 ■ 2015/11/18 (水) 母


「俺がお前の家を出て帰りかけたときだった。坂の上の方から、腰の曲がったお前のお袋が、転がるように俺を追いかけてきたんだ。おまえのおふくろはどうしたと思う?いいか、よく見てろよ。お前のおふくろはこうしたんだ」

 平塚は小原の前に土下座して続けた。

「私の息子は人様を傷つけるような悪い人間ではありません。でも、もしも、何か悪いことをしているなら、真人間になって早く本当のことを言うように言ってください」



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サイコロ 平塚八兵衛 (15/11/18 23:48)


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