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ヒモと呼ばないで9年ぶりに帰ってきました。誰か助けて。 |
■ 2004/01/18 (日) 二度寝 |
二度寝してしまった。
あと19分しかない。 トーストは食べ終わった。 仏壇の花と水をあげることも済ませた。 トイレにはまだ行っていない。 これは5分で済む。 間に合うか。 …そうだ、雪はどうか。 ぬかるんでいるようだといつもよりも時間がかかる。 まだよく外を見ていないのでわからない。 間に合うか。 外はどうか。 そんなことは気にせず、こんなことを朝から日記に書かなければ、余裕で間に合うんだ。 朝が生活の縮図だと言った人がいたらしいが、どうやら正しいのかも。 間に合うのか。 外はどうか。 あと17分。 |
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■ 2004/01/18 (日) 雪2 |
天気予報当たる。
本当に雪が降った。 出入チェックの合間に警備室から外をのぞき込むと、目の前のバックルームや荷受場に降る小粒の雪が、頭の中で八国山一番のお気に入りの谷戸の辺りに降る想像の画に、一瞬で切り替わる。 もう葉という葉はほぼ全て落ちきっているので、恐らく雪は何の抵抗も受けず、そのまま枝や地面に落ちてくるだろう。 多分またあそこには、人は一人もいないに違いない。 時折、鳥か何らかの獣が動く時以外には、音はないはずだ。 そこにただ降るだけの雪。 雨でさえ、あんなに不思議な気持ちにさせてくれたんだ。 ここで雪を見たら、一体どういう気持ちになっていただろう。 忘れてた何かを思い出すだろうか、それとも、感じたことのない何かを見つけたか。 そして、それが降っては溶け、降っては溶け…を何回繰り返した時点で、雪はその「白」を地表に許されるようになるのだろうか。 そこに居合わせていたら、本当に数えてたかも。 そこまでしなくとも、地面に落ちた瞬間に消えてしまう雪をいつまでも見ていたのは確かだろう、今日の俺なら。 まだ降り始めて間もないからだろうか、仕事を終え帰途に就く際ですら、遊歩道のザラザラした煉瓦のような素材と、車道のアスファルト、そして土の地面では、その「許容範囲」にかなり違いがあることがわかる。 一番「白」いのが「土」、車が走るとすぐ消えてしまうので確かじゃないが、次ぎに「アスファルト」、そして遊歩道はほとんどいつもと同じ印象で「白」なんて微塵も感じさせなかった。 もし自分が「雪」だとしたら。 そして、そこにいた、という痕跡を残したいという想いが本能だとしたら。 やはり誰もが「土」に降りたいと思うだろう。 車に一瞬で蹴散らされるのなんか嫌だし、「歩きやすいように」手を加えられて(?)、降ったそばから溶けていかなきゃならない素材の上だけはなんとか避けたいと思うだろう。 もし自分が雪だとしたら。 やはり里山の谷戸のような所に降りたい。 一度は白く輝いて、やがて積もり、そして時間をかけて溶け、川や沼に流れていき、草花に力を与え、そして土に還っていく。 そういう時間を過ごしたい。 もし自分が雪だとしたら。 今、まさに地面に向かって「落ちている」。 そして、このままだと車道のアスファルトだ。 頼む。 風よ吹いてくれ。 そして、俺を里山に連れていってくれ。 早く吹いてくれ。 頼む。 ・・・。 さっさと吹け。 |
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■ 2004/01/17 (土) 雪 |
天気予報によると、今日は関東の平野部でも雪になるんだそうだ。
もしそれが当たるなら、丘陵の景色も冬の極致の姿になることだろう。 天からグレーの地肌に沿うように舞い落ちる雪が、「丸裸」な山全体を、白く装う。 何時間くらいでそれが完成するんだろう。 そんな山を歩けば、少なくとも3回は転ぶだろうし、もちろん寒いに違いないだろうから、出来ることなら着替えを持って、完全防寒で眺めに行きたい。 多分、俺の他にそんな物好きは誰もいないだろう。 秋の大音響の疑似潮騒とは対照的な、無音で、ただ時間の経過と共に白くなっていく山。 想像するだけで、いい感じ。 そして、振り返って現実を見れば…。 何も見えない。 っていうか、見れないようにしているのか。 見たくないんだから、しょうがない。 丘陵を想いながら一日過ごそう。 見たくないものを見みるよりはましだ。 降るなら早く降れ。 せめてもの慰めになるだろう。 …あと12分しかない。 行かなくちゃ。 |
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■ 2004/01/17 (土) ショーバン |
子供の頃、野球が好きで毎日のようにしていた。
守備の練習でゴロを捕る時には、プロ野球選手を真似て、ショートバウンドをすくい上げて捕るのが好きだった。 当時の俺にはそれが格好いいことだったんだ。 友達同士でノックをする時は、ショートバウンドを略した「ショーバン」という言葉を「守備」と「≒」にして「ショーバンする」なんて言ってた記憶もあるくらいだ。 しかし、「ちゃんとした」少年野球のクラブに入り、その捕り方をすると、「基本から外れている」ということで、ユニフォームを着たおっかない「コーチ」や「監督さん」から「前に出て、シュートバウンドになる前に体の正面で」捕るように直された。 すると、どうだ。 捕れないんだ、これが。 ショートバウンドに限らず、ゴロを捕るのはあんなに得意だったはずなのに。 そもそも、ショートバウンドを捕るのが面白いのは、「カン」で捕るからだ。 打球の勢いや角度に合わせて、体の横でグラブを思い切りよくすくい上げる時には、球なんかほとんど見てない。 見ないでも捕れる、っていうか、見ない方が捕れるんだ。 そして、捕ったときに快感がある。 その「カン」が間違っていなかった、すなわち、自分の体の智恵とでもいうものが頭で考えている世界の「前」にあり、「先」を行く実感が気持ちよさを感じられたんだ。 しかし、当時「レギュラーポジション」を本当に欲していた俺は、それを手に入れるために「快感」よりも言われるままの「基本」を身につけて、守備位置に付くようになっていた。 ゴロが来ると、どんなに強い打球でも嬉しくて思わず笑ってしまうくらいだったのが、「えっと、前に出て、腰を落として両手で捕って…」と教えられた言葉を追って体が動くような感じになってしまった。 十八番のショートバウンドは体の横ですくい上げる代わりに、いつの間にか、お気に入りのプロ選手が誰一人としてやらない捕り方、すなわち、体に当てて止め、それを拾って投げる…というスタイルになっていた。 肩は悪くなかったので、アウトは取れたため、「コーチ」は「それでいいんだ」と言っていた。 プレーをする快感は減り、俺の野球への興味は急速に衰えてきた。 しかし「チームをもう辞めようか」と思ったその時、大きな変化が起きて俺はますます野球に夢中になったんだ。 それはショートストップから、ピッチャーにポジションが変わったこと。 「自分が投げなきゃ、ゲームが始まることもない」世界が、性に合っていたんだ。 フォアボールを4回出すまでに、三振を3回取れば俺の勝ち、チームの得。 それだけじゃなく、思い切り全身全霊で勝負しても、揚げ足を取られたり、茶化されたり、小馬鹿にされない世界が、ピッチングだった。 自分の投げたボールが空を裂く音をあげながら、相手打者を仰け反らせ、バットに空を切らせ、ミットにめり込む、あの瞬間。 「ショーバン」の何倍もの強烈な快感だ。 楽しかった。 11歳にして、慢性的な筋肉痛に加え、利き腕の手首の軟骨が盛り上がってしまう程、投げまくった。 それでも何て事なかった。 本当に楽しかったんだ。 それから四半世紀以上が経った今、俺は「ショーバン」はすくい上げて捕らせろ、って心の中で思いながら「基本通りに」という周囲の声に逆らえず、ポロポロ球を落とし続けるダメ内野手だ。 でも、子供の頃と違い、もう俺には上がるマウンドがない。 「全身全霊で感じる快感」なんてものを望めば望むだけ、叶わない空しさが強くなるだけだ。 分かってる。 でも、いまさら「ショーバン」を、すくい上げて捕ってもいいよ、なんて言われても、もう「快感」を感じる、その感受性そのものがなくなっちゃってるのかも。 ショーバン?何それ。 ゴロはゴロだろ。 だったら「処理」してアウトを取ればいいんだよ。 それを3回繰り返さないとチェンジにならないんだから、しなくちゃな。 明日の守備機会は、果たして何回あるのか。 エラーはしたくない。 それだけ。 今はそれだけしか望めない。 …さぁ、しまっていこうぜ。 |
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■ 2004/01/16 (金) 不可避 |
本当に間違いなく悪性の腫瘍が、自然治癒した例があるそうだ。
脳の細胞もある年齢を過ぎると、一日に何十万個もなくなるなんて言われていたが、そうならないこともあるという研究発表があるらしい。 俺の生活も「下り」一辺倒ではなく、「転落のための上り」でもなく、「これでいいんだ」と本当に実感の持てる「上り」に歩を進めることはできないものか。 今までにも、何度同じ事を考えただろう。 答えはいつも「NO」だが。 何故いつも同じ答えになるのがわかってて、同じ質問を同じ自分に繰り返すのだろう。 …今、こう書いてて「同じ自分」という言葉に自分で引っかかった。 じゃぁ「違う自分」に質問すればいいんじゃないか。 「違う自分」。 わからない。 でも、もしこの答えが自分で出せれば、何か変わるかも。 でも、もう時間がない。 あと27分しかない。 27分で、こんな難問に答えなんか出せない。 もう仕事には行かないで、家で、いや、散策しながら考えてみようか。 あと25分。 …。 そうすれば、答えが出そうな感じがする。 あと24分。 |
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■ 2004/01/16 (金) ちゃんとやったか |
今頭の中で、今日の仕事を反復してみたら、急にちゃんとやったか不安になってきた。
確かにメモを見ながら閉めるところは全部確認したはずだ。 朝に車が入るスペースも、コーンを片づけ確保した。 出入り口のラッチと施錠の確認もした。 シャッターと防火扉も閉めた。 電気も消した。 エアコン、ストーブ、窓、ラッパー、ガスの大元栓も見た。 大丈夫だ。 絶対大丈夫。 大丈夫に決まってる。 大丈夫だとも。 …ちゃんとやったさ。 |
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■ 2004/01/16 (金) ちゃんとやってる |
帰ってきた。
いきなり玄関に燃えないゴミの袋。 呼び鈴を押すと娘が起きてしまうので、鳴らせない。 帰宅したのに戸も開けずに引き返すのが情けなかったので、とりあえず自分で鍵だけは開ける。 それからゴミを手に取り、一度通り過ぎたゴミ捨て場に引き返す。 ゴミをまとめるのは妻の仕事、捨てるのは俺の仕事。 改めて決めたことではないが、流れでそうなっている。 彼女は自分の仕事をちゃんとやったから、今度は俺が役目を果たす番だということなんだろう。 ゴミ捨てを済ませ、やっと家に入れる。 とりあえずトイレに。 その時点で妻が食事の支度をしてくれてるのが気配で分かった。 ゴミ捨てに行った時点で作り始めていたようだ。 それは有り難い。 …でも、同時に辟易ともする。 だって俺がまとめ炊きしたご飯と、朝の味噌汁、それに出来合の惣菜を温めるだけだろ。 急がないと冷めちゃうじゃん。 いくら何でも、帰ってきて温め直しの冷めたものなんか食べたくないよ。 それに、もうたっぷりと「急がないと」っていう時間を過ごしてきたんだ。 帰ってからも、そんなに急かすなよ。 急いでトイレから出て、慌てて手洗いとうがいを済ませ、日課の体重と体脂肪を計り、着替えを済ませると、最初に玄関に着いてから、もう15分以上経っていた。 それからテーブルの前に座って、とにかくお茶をすする。 …でもその時には、すでにもう生ぬるい。 俺は、酒も、タバコもやらない。 ただ、お茶を飲むだけ。 そのお茶が、それも帰ってからの最初の一杯のお茶が、すでに冷たいなんて最悪だよ。 味噌汁も同じく、ぬるい。 ご飯と餃子は妥協点に辛うじて触れる、という感じの温かさ。 彼女にしたら「遅くに帰ってきた夫のために起き出して、ご飯を温め直してあげてるいい妻」を一生懸命しているんだろう。 だけどさ、相手は人だよ。 いつも同じ行動を同じ時間でこなすわけないじゃん。 それも、そういう行動を9時間強いられてきた者が、やっと帰ってきて、解放されてきたんだよ。 さらに、その男はそういう生活に適正がないってことを感じる辛さを一日中味わって帰ってきてるんだよ。 ゴミ捨てに行って、それからトイレに入ったのがわかったら、ちょっと待ってくれたっていいじゃん。 だいたいお茶なんか、「飲みたい」って言っても、いつも一番最後に入れてるくせに。 そんなことすらしたくないなら、もう寝ててもいいよ。 実際、お前が起きてこないときは、熱いお茶とご飯の支度くらい自分でしてるんだからさ。 …今ここで書いたことを、それに砂糖と蜂蜜とみりんを入れて、人肌に温めた言い方にして言ってみた。 具体的に書こうか。 「あのさぁ、いつもはトイレにすぐに行かないけど、今日はすぐに入ったじゃん。 それにゴミも捨てに行ったしさ。 そうしたら、ご飯とか冷めちゃうから、俺が自分で温めるから、君はそんなに急いでしなくてもいいよ。」 すると、むくれてもう何も喋らない。 喋ったかと思うと、ストーブの火を見つめて、ぶつぶつ何か口の中で言っているだけ。 …わかったよ。 君はちゃんとやってるよ。 そして、俺はまだまだなんだよな。 君がわざわざしてくれたことに、文句言ってるようじゃ「男として」まだまだってことなんだよね。 お義母さんに、そう伝えるんだろ。 違うか。 お義母さんにそう言われてるのか。 俺は「もっと急いで」「相手を受け入れて」。 君は「ちゃんとやってる」。 自分の家が休憩室のソファーの延長のように感じるわけだ。 …入る前にカードのスキャンをするか、ゴミを捨てるのかが、大きな違いか。 こんな夕食ありか。 っていうか、こんな生活ありか。 |
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■ 2004/01/15 (木) 〆 |
今日は給料の〆だ。
研修から丸々1ヶ月。 配属されてからだと、23日くらいか。 ありきたりだけど、早いような、遅いような。 本当にいつまでここで働くんだろう、俺。 とりあえず月末の給料日まではいるだろうが。 引っ越したら、朝番じゃ通えないんだから、やはりそう長くはできないし。 もう次を探してもいいかな。 さっさと、賃労働自体を〆にしたいよ。 あと47分か。 さっきまで1時間半あったのにな。 もう47分しかないなんて。 それが仕事に入ると、何故あんなに時間はゆっくり進むのだろうか。 ああ、もう1分経った。 あと46分。 |
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■ 2004/01/15 (木) あなた |
風呂に入る前に、何の気無しにMyMusicのフォルダを開いてみたら、最近ほとんど聞かなくなっている曲があることに気づいた。
それは「あなた/小坂明子」。 といっても、もう30代後半以降の人しかわからないか。 昭和48,9年頃の大ヒット曲だ。 「大ヒット曲」なんて言い方すら今はしないか。 でも、まさにこれはそういう言い方に相応しい感じがする。 昭和50年、祖母が病気で倒れ、入院した。 うちは母と祖母との3人家族だったから、祖母が家からいなくなることに強いショックを感じ、俺は本当に寂しかった。 入院して最初のお見舞いは、当時近くにいた親戚と一緒にみんなで行くことになっていた。 でも、間の悪いことに、気にはなっていたけど滅多に遊ばなかった当時の同級生がその日になって「今日遊ぼう」と言ってきた。 それで、俺は「うん」って言っちゃったんだ。 断ったってなんてことないのに。 見舞いから帰ってきた母は「お祖母ちゃんは『○○はどうしたの?何かあったの?』って何回も聞いてたよ」って言ってた。 次の日、やっと母と二人で見舞いに行った。 実際に行ってみると、病院って所がとてつもなく不気味に感じ、祖母がこんなところに一人でいるなんて考えるだけで恐くなってきた。 俺は所在なく、照れ隠しと、この恐怖をごまかそうとする虚勢で「小遣いちょうだい」って言ったんだ。 祖母は見慣れたがま口から、伊藤博文の千円札を一枚、俺に渡してくれた。 確か、ちょうど傍にいた看護婦さんか誰かに「こんなときでもこの子はお小遣いを欲しがるんだから」なんて言ってた。 でも笑ってた。 いつもの優しい顔だった。 俺は別にそんなお金なんか欲しくなかったのに。 「昨日はゴメンね」って言いに来ただけなのに。 そう言えば、もっと笑ってくれたはずなのに。 その日、この曲を聴いたことを何故か強烈に覚えている。 病院のレストランでハンバーグステーキを食べている時だったか、帰ってからのラジオだったかは定かではないが。 祖母は結局一度も家に帰ることなく、俺の誕生日の2日前に死んだ。 その間、ほぼ毎日見舞いに行ったが、それは一番大事な日に行けなかったことの埋め合わせにもならなかった気が今でもしている。 今、この曲を聴きながらこれを書いている。 あの当時と変わらなく聞くことが出来る。 何度でも、好きなだけ。 おばあちゃん、昨日はごめんね。 明日から毎日お見舞いに来るから、早く元気になってね。 でも、この言葉はもう伝わらない。 伝えるチャンスを俺が逸したから。 おばあちゃん、ごめんね。 ごめんなさい。 …もう風呂はやめた。 寝よう。 |
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■ 2004/01/14 (水) 休日/花見 |
今日は休み。
午後から丘陵散策へ。 今日は風が本当に冷たく、いつもなら歩き出して10分もしないうちに外すマフラーや手袋も、とうとう山に着くまで身につけたままだった。 果たして、久しぶりの八国山は、まさに丸裸。 以前に比べ、その「色」は影を潜め、「グレー」の木肌と、せいぜい踝辺りまでの高さにしか群生しない笹の一種と思しき葉の「緑」と地面の「焦げ茶」、そして古い落ち葉の「薄茶」の4色しか感じない。 そしてその印象もどこかクールで、皆似通っていたため「丸裸」なんて言ってしまった。 しかし、先に行けば行くほど鋭利に尖ってくる枝の鋭さを競うような木々の存在感は決して軽くはない。 緑溢れる、あるいは紅葉に彩られていた時とは違う、「洗練された」感じがする、と言ったら余計分かりにくいか。 見るからに生命力に溢れる「色」っぽい姿だけが、人を惹きつける訳じゃない。 葉が付いていたときには気が付かなかったこの木々の「脱ぎっぷり」は、それだけで充分魅力的だ。 「…にもかかわらず」「YES、BUT」…こういう言葉で表される精神的な取っかかりから、人は力を盛り返したり、話の急展開を自ら招き入れることもあるだろう。 当たり前だが、これらの木々は枯れてはいるが、死んでいるわけではない。 その時が来たことを受け入れ、葉を落としただけだ。 最盛期が過ぎたことをあっさり受け入れることで、実は次の「色」の準備が調うことを山は知っているんだ。 葉が落ちきった木の姿は、終わりを受け入れ、次のスタートを始めたというサイン。 その象徴が大挙して集まっている山に、何もないわけがない。 モノトーンである、というだけで「ダサイ」と言ってしまえないのとどこか似ているかもしれない。 それにもう一点。 これだけ風が強いのに何故かあまり「音」を感じなかった。 やはり、里山の音は「葉」が作るのだろうか。 とにかくこの静けさは、今日の「sophisticated」な山の空気に一役買っていたのは確かだが。 そんな気分のまま山を下り、これも久しぶりに都内唯一の国宝建築物の「千体地蔵堂」のある正福寺に寄り道。 これもまた思いっきりモノトーンな風情で、冷たい風に吹かれていた姿が、なんとも潔い感じがして良かった。 特長である屋根の「反り」を滑り台にして、冷風を上から顔に向かってを叩きつけられているかのような錯覚を覚えるほど、寒かったが。 そして、その風から身を守るように背を丸め、正福寺正門前の道を駅に向かって戻る途中、今日最後にして最大の発見をする。 それはなんと「桜」。 確かに咲いてる。 ある民家のもので、道端からも読めるように書かれたカードによると、「四季桜」と言って、10月頃から冬の間少しずつ咲き続けるそうだ。 小さいけど、確かに桜の花だ。 「枯れてるけど、死んでいるわけじゃない」どころか、真冬の寒風吹きすさぶ中「にもかかわらず」、花を咲かせる桜まであるんだ。 自分がどんな木で、どんな花を咲かせるのかを予め知っていられたら、人生の問題の多くは招かずに済むのかもしれない。 でもそれが分からないから、みんなが咲く季節が来たから、春だからと言って、自分の開花の具合を気に病むんだ。 「四季桜」か。 こんな木もあるんだ。 また見に行こう。 |
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