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人生???


 ■ 2004/12/14 (火) 論文脱稿


昨日付けで学校の事務に論文(&論文要旨)を提出。
一部事務手続きでヒヤッとする場面もありましたが、無事にクリア。

結局論文本体だけで原稿用紙換算175枚になりました。予定より結構増えた。
中身は…まあ、自分で言っても仕方ないです。結局読み手の審判に任せるしかないので。

というわけで、書き終わってしまった今、とても暇です。
虚脱感に襲われていると言うか、なんか文章を書いてないと不安になります。

この状態をキープすれば作家になれるのか? (そんな甘くネーだろ)

論文要旨をここに張るぞ! とか前に言いましたが、
原稿用紙で10枚あるものをここに張るのは暴力に近いのではないかとおもうわけで、
といって自分で新たにサイトを作るのもどうかと。
コンテンツは自分の修士論文だけになるので、それ自体もはや却下ですね。だれがそんな地味なサイトみるっちゅーねん。

10枚を2,3枚にさらに縮められたら一挙掲載できるかな…。
それとも大まかに段落ごとに切って連載化すればいいか?
うんそうだそうしよう。

なので第一回。千字ちょっとです。多分後三回で連載終了。
(一応書いておくと、この要旨並びにその本論の学術的な正当性と価値は、この日記を執筆した現在、いずれの研究機関や研究者によっても保障されておりません。よって、引用・信用・盗用などして書かれた論文の価値が下がったり、赤っ恥をかく羽目になったとしても当方はそのリスクと結果には関知しません。ぶっちゃけ審査にまだ通ってないってことです。)
(誰も名乗りをあげないと思いますが、出版したいという方は一応ご連絡を。ただし大して売れないと思います)

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 意味と時間性の問題を考察すると銘たれた本論は、『存在と時間』のテクストにおける了解と時間性の問題を中心にしている。
 意味を考察するといっても、ある物が有する意味は、我々自身がそのものに相対するときに身を置いている文脈に拘束され、その中で形成されている。そうした文脈を一切離れたものとしての意味を見出すことは出来ないし、在る文脈から身を引き離すことはまた別の文脈に身を置くことである。我々を直ちに取り巻いているものから別のものに転ずれば、我々自身もまたそうした文脈の中で、自己を理解している。この文脈の中に身を置くという仕方から自らに関する理解と、自らに伴われて存在する諸事物の意味を等根源的に引き出している。「今自分は文章を書いている」という自己理解は、確かにペンのペンとしての意味を証すが、しかしそれを支える自己理解は、結局今まさにそうして見出されているペンもふくめた多数のものどもに支えられてもいる。いずれにしても、道具の使用は、その主体と客体を同時に形成する。その限りで、世界内存在の機制は、他者との対比的な意味での「私」という主語を含んだ構文によって、道具の使用、つまり行動を記述する基礎をも与える。「私」が日常性の内部の諸可能性を、「私」を焦点として束ねることが現に成立していることは、しかし単なる有用性によっては理解されない。我々の生活を改めて見直せば、我々の生活が有用性を軸にして意味形成されていることが理解できる。その意味では、我々は有用性によって定義されたものどもに満たされた世界に身を置くことで自らの意味を理解しているといえないことはない。眼前のものの意味が我々の意味を形成しており、そして眼前のものの意味は我々の自己理解から形成されている。なおかつ、そのようにして有意味である個々の事物や事柄は相互に指示しあい、その相互連関によって世界は閉じた意味の連関を形成する。生活はそうした意味の体系が既に成り立っている限りで成立している。その連関の中で意味の基礎付けを求めようとしても、最終的には閉じた世界の内部での彷徨にならざるを得ない。世界が有用性によって基礎付けられているとしても、その有用性という指標を最初に与えたものは何であるのかということは、有用性を基準にしては語られえない。現存在の存在が全体としてなんであるかという全体性は、有用性を基準としては語られえない。有用性は世界内部のものどもの相互連関の規定でしかなく、現存在そのものの存在は我々にとっての有用性そのものとは何ら関係が無いことだからである。

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こんな感じです。原文からそのまま転載したせいもありますが、画面では我ながら読みにくいことこの上ないです。こんなのを読まされる教官の先生方の苦労を思うととても足を向けて寝られません。


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ぺけぽむ ご声援、ありがとうございます。もうしばらくこんな感じで要旨を連載するつもりですが、今日になって画面を自分で見直してがっくり。やっぱり読みにくいですねぇ…。 (04/12/15 10:56)
幸運を祈る 論文お疲れ様でした。自分には絶対書けませんですよ。 (04/12/14 20:38)
4と5 論文脱稿おめでとうございます!お疲れさまでした。 (04/12/14 19:59)


 ■ 2004/11/29 (月) とりあえず日記。


ぺけぽむ@修論の手直し中。です。
直していくとキリがなくて困ります。とくにパソで書いてるとほんとに底なし沼。
細かい修正ばかりで骨組みまでは変えられないのでそれがまたイヤ。
第一、自分で書いた論文ながら「屑 論 文」みたいな感じがして非常にストレスフル。

で、今日は少しうんざりして手直し中止。
歩いて20分のところの在る公園でハイデガーの『形而上学入門』を読みながら、
時々近くの自衛隊基地から飛び上がる米海軍の戦闘機を眺めて一日を過ごしました。

戦闘機はいいとして、この『形而上学入門』はもっと早く読んでおくべきだった。
そうすれば論文に少し厚みが出たのに…。今から取り込みなおそうかな…
一部の修正と補強なら、残り時間を考えてもやってやれないことはない、かな?
やってみようやってみようとりあえずファイルを新しく作って。完成品に組み込むかどうかは別にして。

もう論文なんか書くチャンスは二度とないかもしれないんだから。やれるだけやっとこう。


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4と5 書いていると、妙なタイミングで文献との運命的な?出会いがあったりしますね。どうせ運命ならもっと早く来ておくれ、と慌てたことがあります。 (04/12/01 20:36)
韮山 それを始めるとキリがないです。(^^;) 自分も、顧客満足の卒論が一通り完成したところで、「サービス業の顧客満足」なる有益な参考文献にぶつかり難儀したことがあります。 結局、マイナーチェンジで収めましたが・・ (04/11/29 21:59)
幸運を祈る やれるだけやってみてください〜。 (04/11/29 21:50)


 ■ 2004/11/16 (火) 何にもしてないけど疲れる


何にもしていないというより、まあ今日は指導教官に朱入れしてもらった草稿を東京まで受け取りに言ったので疲れたのかもしれないです。
わりと田舎育ちなもので。東京は疲れます。特に23区内。

講評としては
「まあ勉強の成果も出ているみたいだし、それなりに自分で考えられているようだ。
 あとは誤字脱字の修正と、論点の飛躍や無駄な部分を削ぎ、
 自分で考えている部分でも一応使った原典は引用して地に足をつける。
 時間は残り少ないが、まあ化粧直しておきなさい」
とのこと。

確かにあっぷあっぷしながら書いたからおかしくなってるところは数多いし、
結局展開しなかった論点もうっかり残したままになっていたりと、自分で反省していたとおりのことを言われた感じです。
もっと叱られると思っていたのですが。…叱るほどには成果を期待されていないってことか。

あー、またしばらく『存在と時間』しか読めないのか…なんだか、論文を書くためによむというのに飽きてきてしまったというか。
論文を書くのは嫌いですね。哲学書を読むこと自体は割と好きですが。

プロになれないわけだ…(苦笑


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韮山 卒論を思い出します。(^^;) 知識というよりは、「自論」の展開だけに、難しいんですよね・・・ (04/11/19 01:30)
幸運を祈る 論文を書くのは大変なんでしょうね。論文書いた経験がなかったりです・・・ (04/11/16 20:16)


 ■ 2004/11/10 (水) なんとか結論まで…


修士論文、最後の方までたどり着きました。
まだ完成ではなくてこれからいろいろ差し替えたり、磨き上げたりして完成ですが、
まあなんとか昨日で一応結論まで到着。
応援してくれたみなさんのおかげです。

今日は一日楽に過ごしました。気になって関連する本は読みましたけど。

簡単に言ってしまうと、
「平凡な人生でも、考えようで救いが在る。
 むしろ平凡であることの中にこそ救いがある。
 平凡であることでも、存在しているということの中に既に救いの可能性が在る」
みたいな感じになりました。
字面をの上ではそこまで書いてないのですが、もしかしたら審査では見抜かれるかな…。まあ、本音なので、隠しようはないのですし、別におかしいことではないし。

あとは先行研究との兼ね合いを見直したりして書き換えるところは書き換えて、
(使っていないネタのストックは充分在るので全然OK)(とかそういうことじゃなくて泥縄だなヲイ)
筆が滑っているところは滑らないように慎重に書き直して、
(ただどーも滑っているほうが面白いんだよね)(滑らないように書けないのかというツッコミは不可)
序文とあとがきを適当に付けて、論文要旨を作って完成。
(要旨は4000字が上限…4000字? ナニ、軽いさ、軽い…あは、あはははは…、はは…ガクッ)(ついに倒れる)

(起き上がって)
で、何故か手元には今、マルクスの『経済学・哲学草稿』があります。
来年から働くから、働くことについての哲学に触れておきたいとおもっていた矢先、
アマゾンで見て衝動買い。

曖昧に「搾取」とかよく言ってるけど、そもそもどういう意味で使われたたんだ?
というところを確かめなおしたいのですね。
流されて働きたくないし、流されてもそれがどうして流されてしまうのか、どうすれば流れを自分の手に引き寄せられるのか。
そのためのよすがになるものが欲しい。そんな感じです。


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韮山 余計なことを言ってしまい失礼しました。m(_ _)m  マルクスが発見した経済概念なり理論というものは、資本主義の学者の間でも一目おかれ、その理論の中でも用いられています。 アクセサリーの価値を認める他者の存在などは、マーケティングにおける消費者行動理論にも重なり、マルクスが将来を見据えていたことをうかがわせます。 党派性を排除することができれば、良い読み物になりそうですね。 (04/11/13 14:12)
ぺけぽむ 労働価値説くらいはさすがに聴いたことありますよ。韮山さんの例に即して反証を上げておくと、そのアクセサリーがアクセサリーとして認められるためにそれを交換する他者の承認が必要で、労働が直ちに交換価値を持つとは限らない…と。価値の基礎付けをどこに持ってくるかと言う話ですが。で、確かに日本の共産・社会主義にはそういう歴史はあるわけですが、経済学出身ではなくて倫理学出身の私はそういう党派性をまずは自明としないでマルクスを読みたい、と思うわけです。どっちにしろ官僚・政治家・資本家が共産主義革命のロジックを理解したとしたら、革命が未然に起こらないようにロジックの先手を取るはず→抑圧強化だけではなくて資本主義を闘争を起こさないほうに変質させる、という流れは予想できます。そしたらどうすればええねん、という話です。あとまあ、個人的なことですけど、入る予定の会社は労組ない会社なのでいっそ俺が労組作ったろかな、ということも視野にあるので、そこがマルクス読む動機です。 (04/11/12 13:50)
韮山 一方で、農村の小作人を支持基盤としてきた「日本社会党」は、日本社会について資本家vs労働者(資本主義的搾取関係)の対立と地主vs小作人(封建的支配体制)の対立が並存するタチの悪い社会(半封建社会)だと断じ、まずはフランス革命のような自由主義革命により小作人を解放し、後、ロシア革命型の社会主義革命を以って、社会主義体制を確立するという2段階革命論を唱えていました。 55年体制の頃の話ですけれど・・ (04/11/11 00:27)
韮山 ちなみに・・・ 都市労働者を支持基盤とする「日本共産党」はマルクスの理論に忠実に従い、「資本家」を倒すために「労働者」はすぐに社会主義革命を起こすべきだと唱えて来ました。(最近、軌道修正したようですが・・) (04/11/11 00:23)
韮山 マルクス経済学の論理によれば、「価値」は労働により作られる・・と。 確かに、ただの石ころには価値がないのに、労働により小石のアクセサリーになると「価値」を持つ。つまり、「価値」を産むのは労働者なのに、「労働者」でない人(資本家)が儲かっている現状を指して、「搾取」と呼んだのです。 (04/11/11 00:21)
幸運を祈る お〜最後の方までたどりつきましたか〜お疲れ様です。これからまだ修正などあるみたいなので、頑張ってくださいね。お体にお気をつけ下さい。 (04/11/10 22:10)


 ■ 2004/11/01 (月) 11月かよ?


なんというか、タッチの差で11月になってしまいました。

修士論文は、あー、87%くらい書きました。あと残り約8000字。書く材料さえ挙がれば三日で型がつくところまで来ました。

…来ましたが、最後の山場でスタック中です。
ネタ切れというか、扱った原典の本質的な(と自分が思った)問題を批判しているのですが、
どうも切れが悪い。
引用しては注釈をつける繰り返しを離れて、
自由に自分の責任で自分の頭を使って考え出した途端に内容のレベルが下がってしまいました。
「俺って馬鹿」という感慨に尽きないと言うか。
で、当然、論述がだらだらして書いている割には話が進んでない、読み返すと迷走そのもの。
こんなで大丈夫か? 大いに不安。

中身は、まあ自分で言っても仕方ないですが、それなりに頑張ったつもりです。
冒険的過ぎないようにオリジナルの見解を入れて、出来るだけ既成の出回った解釈からの引用は少なめに。引用するときは喧嘩を売るときという方向性で。

執筆のペースそのものは大体予定通りというか、少し早目で進んでいるので問題なし。
丸ごと一章書き換えるくらいの時間は確保できています。

まあ、一応論文の形をした何か、にはなるでしょう。

完成したら、論文要旨だけでもここに張るかな…。
それとも自前のブログでも作ろうかな。自分の論文を天下にさらすのはかなり恥ずかしいことでは、あるのだけれど。


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コンドウマサヒロ 11月19日 僕の誕生日です (10/09/01 20:24)
4と5 心血注いだ文章を人前にさらすのは勇気が要りますが、得るものは大きいと思います。私は睡眠の質まで変わりました(←過剰反応)。 (04/11/01 23:47)
ぺけぽむ 感謝です! (04/11/01 23:41)
幸運を祈る 頑張ってください。 (04/11/01 20:20)


 ■ 2004/10/14 (木) 自殺論


お久しぶり、やっと更新です。

近況は前回と同じで代わり映えありません。相変わらず論文かくためにキーをたたき、本からネタをあさる日々です。

それはそれとして、このサイトの掲示板の一つの名所になってた(?)自殺スレッドが最近復活しましたね。一度は沈んだかと思いましたが、やはり先日の事件があってみると、当面なくならないのだろう、と。

真剣な相談者と言う人は、実はなかなかいらっしゃいません。
遊び半分で殺しそうな人が、遊び半分で自殺したいと思ったり、自殺したりする世の中になったようです。

自分の人生はつまらないが、自殺するのは楽しいと思って(ほんとに思ったかどうかは知りませんが)練炭炊かれた主婦の方もいらっしゃったようです。
私は人生が楽しくなければいけないとは思いませんが。そうですか。変ですか。

なんだか腹が立っています。
正直に言いますよ。
私には、正直に言って、見ず知らずの他人と一緒に練炭で死ねる神経がわかりません。
というかなんというか、まあ、進路が定まらないでいる間、正直言って、午後二時の太陽と日没と世界の地平線の遠い向こうから死の願望がやってきて、床に落ちている電気コードをみた次の瞬間に視線がベランダの手すりに飛んで、「このコードとあの手すり、俺の体重支えられるかな」と思ったことが、何回かあります。
で、たぶん、なんかのきっかけで閾値を越えたらやってただろうなと思いますが、まあ今生きているので実際のところどうだったかというのはわかりません。

今はもうちょっと死にたい願望のほうがひねてきて、「どうせ死ぬ。今死ななくても願望は自動的に達成される。なら面倒なことはせぬが良い」というようになっています。
少し頭の内容が複雑になったということのようです。卑怯になったという人もいるかもしれませんが。

中高年の覚悟の自殺は背負えるだけのもの全てをその身に背負った末に、黙って決行。
これは、私のような未熟な人間がどうこう言っていいことじゃない。
全部をしょえるだけ背負って、それでも行く人の脚を止めるようなことは出来ない。

そしてそういう人は誰にも他人には相談などしないものだ。背の重みこそがその人の相談相手なのだから。

で、
ハンパな若者と主婦は体置いてきぼりで脳みそが脳内物質垂れ流しのネット内世界で盛り上がるうちに、ずるずる足抜け出来なくなって心中。
正直言って、彼らが早世したことは彼ら自身にも世の中にとっても幸いなことだったのではないだろうか。
彼らはは意志が弱いくせに(意志が強かったら他人に甘えたあんな死に方はしないはずだ)、
分不相応に強烈な破壊願望がある人たちで(自分を破壊することは自分の生きている世界を破壊することと等価で、めちゃくちゃに他人を傷つけることと自傷行為が時々重なることもある、つまり自分を殺すことで自分に関わった全てのものを無に返せると思っているのだ)、
それをもてあまして内向して自滅した人で、ある意味で先日刑執行されたTと同じ視線で自分と世界を眺めていた人たちに思える。

彼らは、自分たちが抱え込んだ死への願望が何であるのかを捉えようとしなかった。
自分たちが抱え込んだ願望がどれほど破壊的であるのか、自分たちの苦しみがどこから来るのかを考えようとしなかった。
死を非常に簡単なことであり、夜に眠るのと同じくらいに当たり前のことだと思ったのだ。

しかし事柄はそんなに簡単ではない。眠くなると言うのは自分がいったん世界から遠ざかって行くことに例えられるが、寝ているときの自分とおきているときの自分をつなげているのは何なのか。
自分が世界から脱落していても世界は存在しているのだよ、暗闇で安寧に耽ろうと志した諸君。今はこの声も届かないのだが。

恐ろしいことかもしれないが、存在しているとか生きていると言うのは…人間においてはこの二つのことは最終的に同じことでなければおかしいが…「私」や「貴方」や「諸君」が自分の力でどうこうできることではないのだ。

どうもこうもできないのに、我々は生かされ、存在させられている。それがどれほど悲劇めいていて滑稽であろうとも。
私が存在する、という動詞の本当の主語は「私」ではないのだ。
「私」などを消し去ったからと言って、存在は仮借なく世界を存在させ続けるだろう。
そこには例外などない。

世界には、大地と陸続きである「外」などない。
我々が生きていることに、ぴったりと世界は張り付いている。
「私」が生きる世界の中で私が消え去ると言う例外的な瞬間まで、「私」は否応なく存在させられている。
暗闇の諸君、あなた方が自分の生を似非ヒューマニズムで手前勝手に「無意味」と断じ、練炭で馨しくした安直なチキンレースに尻を突っ込んだとき、まさに貴方がたの生も死も、そういう小さなものになったのだ。あなた方にはそれしか見えなかったのだから。
どれだけの視野が、どれだけの広がりが提供されているのかも知らずに。

愛されることを待つのではなくて、自ら愛することを知れば、生きてもいけたのだろう。
ただ、そこに楽しいことは特にない。愛されることだけが楽しいのであって、愛することはむしろ苦痛を強制する。だが、与え奪われることによっても人は生きて行けるものなのだ。
それを知ることのなかった不幸にだけ同情する。
それ以外のことは救いのない暗愚に過ぎない。


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大人の少年 人生には悲しみや苦しみの方が楽しみより多いと思いますが、楽しみを少しでも感じ取れるようにしなければいけないと思う。他人と一緒に命を捨てる事などあってはならないとおもう。 (04/10/15 09:47)
幸運を祈る 最近は自殺のニュースが多いですよね。悲しい世の中です・・・ (04/10/15 03:06)


 ■ 2004/09/23 (木) 意味について(四)


と言うわけで、タイトルの変更と背景色その他をちょちょっと変更。気分しだいですね。
今回はやや本格的に、七月ごろにやっていた考察の続きです。うまく書ければ論文にフィードバックします。

さて、現在、私の論文は最初の折り返し点に差し掛かりました。

これまで考えてきた意味1は、この日記では道具的なものの有用性に関して述べられてきましたが、これは実際には「道具的」とはっきりとは意識されない事柄でも同じ構造が見られます。
例えば、日付の問題がそうですね。
「あの日は資格の試験があって、この日は就職の面接。歯医者の予約はこの日のほうがいいや」
みたいな感じで適切に日にちを選んで予定を立てます。同じ一日の中や、あるいは何年越しみたいな場合でも似たようなもんです。

とは言え、もっとミクロな場面に目を向けて見ましょう。
うーん、物騒な例しか思い浮かばないのですが、例えば、目の前に果物ナイフがありますよね。これは「刃物」で、特に果物を切るのに便利な奴です。だから、果物ナイフの「意味」は「果物を良く切れること」にあるわけです。肥後の守でりんごの皮を向けないことはないでしょうが、果物ナイフのほうが便利でしょう。
で、二時間ドラマによくあるように、目の前の奴が突然こちらの殺意を引き起こすような言動をとったとしますね。私は実際に殺さないまでも「殺ス!」と思うわけです。そのときには、果物ナイフは「殺人ナイフ」になる可能性をもったわけです。

出来事のつながりをみれば、果物ナイフが殺人ナイフに変身したのは目の前の奴の不埒な言動が原因なわけですが、しかし、同じものがどうして別なものに変わってしまったのかと言えば、
「突くもの、切るもの」としての刃物の「意味」のあらかたの部分を知っていたからにほかならない。つまり、刃物の使い方を不完全にでも知っている人は、刃物ならどんなものでも人を刺せば大変なことになるのがわかるはずですよね。
ですが、この知っていたということの中身が本当だったことが立証されるのは、まさに「果物ナイフ」が「殺人ナイフ」に切り替わった瞬間、つまりその気になってぶっすり刺した瞬間です。

この、「瞬間」といやつが鍵です。時間を単に流れるものと見ただけでは、なぜ実現していない可能性や「意味」が我々にとって意識されたり実現したりするのかということがわからない。
時間とは、むしろ、こうした目に見えない蓄積を伴っているものではないかと。
いや、正確には、時間とはこうした蓄積そのものなのかもしれない、とこそ思われるのです。


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ぺけぽむ 関連ありますね。うーん、例えば、昨日見た空の青さの美しさを説明するとしますよね。その「青さ」を美しいと思ったのは、それを見た人がそれまで経験してきたことの中の、空の色に関係するところを思い出して「きれいな青い空」がという感想が出て来ると思えますよね。ただ、空の色ばかりを記憶の中で比較して「綺麗」と言っているのではなくて、思い切り泣きはらした後の空の綺麗さや、思い切り失恋したあとの秋の晴れ空の美しさというものもある。これは「泣いた」「フラれた」という経験が「綺麗」という意味を与えた、ということになりますよね。特別な経験に関連付けられて見出されたから、「綺麗」だと(この説自信なし)。そんなときの「綺麗」を後日に説明しようとすると、おそらくは空の色以外のことをいろいろ語らなくちゃいけない。ただ、その「青さ」を見た瞬間は、どんな言葉も間に合わない速さで「ああ綺麗だ」となっているわけです。(この言葉のもどかしさを逆手とるところに身上を賭けるのが作家や詩人と呼ばれる人たちなのでしょう。)まとめると、経験には経験した人の過去の全てが結びついていて、時間が過ぎることはその経験が生成され、次の新たな経験と結びつくものとして蓄えられていくこと。…うーむ。大人の少年さんに近づけていくとこんな感じになると思うですが… やっぱり、自分で読み返してもわかりにくいです。 (04/09/24 14:25)
大人の少年 ちょっと意味が違うかもしれないけど、昨日の出来事を正確に説明するのに今日一日かかる。つまり昨日の出来事を仮に5分で説明してしまえば残りの23時間55分は、省かれているって事になる。・・・ちょっと違うかな・・? (04/09/23 21:47)
幸運を祈る 論文頑張ってください。 (04/09/23 21:44)


 ■ 2004/09/22 (水) また少しだけ更新


この日記が日記としての機能を失ったのはすでに昨年のことなので、いまさら隔週化しようが隔月化しようがどってことないのです、私のいい加減な「人生紙吹雪日記」は。
あ、でも、タイトルを変更せねばらないかもしれない。人生を無意味とは最近思わなくなったのです。

で、修士論文はいま19000オーバーです。指導教官の宅に印刷して郵送し、「ご指導のほどよろしくお願い」しました。

当初の計画より少し遅れ気味です。
12月中旬の提出を目処に前倒しで10月にはいったんプロトタイプを書き終わり、11月で製品実用化を目指して改修、で12月にロールアウトの予定でいました。
元からこういう風に余裕を持っておいたので、まあなんとかなるかと。

内容的には、なんというか「死ぬことで人間の全てが完成する」という結論をなんとか回避してみようという方向性になってきました。
死ぬことで自分の人生の意味が完成するなんてことはなくて、自分の人生の意味つまり自分の存在することの<意味>が自分の手の内にないということを証明しつつ、
かつそうであることは<意味>を自分であくまで保持することより「良い」ことなのだと、
そう論証できれば私の勝ちです。

誰に、あるいは何に勝つのかはわかりません。ただ、恐らくなにかの勝負での勝ちだという気がします。


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幸運を祈る なんだか難しそうですけど、頑張ってください。 (04/09/22 18:45)
(´・ω・`)しょぼんぬ 論文か…私もかなり前に書きましたが、何かいたがほとんど覚えてないです。執筆お疲れさまです。 (04/09/22 15:36)


 ■ 2004/09/10 (金) 少し更新


また一ヶ月空きました。

修士論文は、まあ9000字ほど書きました。
上限は60000字(原稿用紙150枚ほど)なのでまだまだ。内容的にもまだまだです。

前回ではどうも、だいぶあちこちはしょった議論になりました。
今回、新しく議論を展開するだけのタメがまだないので今日はどうしようもないのですが、
ただ、見通しとして、

1 根源的な意味(これまで言ってきたところでは「意味2」)は、私というものが見出しうる限りの一切のものの意味を基礎付ける。もっとも、この「基礎付ける」と言う言葉は、他の適切な言い方が見つかり次第切り替えるつもりです。

2 意味1は、その性質上、自己完結的な性質を持つ。

3 ここからが本題。自己完結的な性質であったとして、では、この意味1は一体どこからその意味を受けているのか。自らそれ自体のみをさして意味しうる意味、と言うものがありうるか。

4 考えられる解決。意味1の指し示すものには、その意味をなさ占めた当のものは含まれていない、という解決。つまり、「私」の全体を構成するものに、私に由来しないものが仰山含まれておる、と。

既に書いた部分は1の部分をやっている段階です。ただ、まだ基礎付けの部分に手がかかっていないと言う。
まあ、物理的にはともかく書かないといけないで、仕方ないから頑張ります。


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4と5 ご活動の再開を、そこに再生の力が感じられることを、心からうれしく思います。不穏な板で、苦しんでいる人に深く関与するのは困難な作業ですが、それを成し遂げておられるぺけぽむさんには、敬服しています。お気遣い、感謝します! (04/09/22 21:10)
ぺけぽむ お久しぶりです、4と5さん! 執筆は順調と言うか堂々巡りで進まないと言うか。自殺スレで最近活動再開しました。板としては全体に物騒な感じになってますが、昨年と比べて自分の頭のつくりが変わったことを感じながら、「どこ吹く風」を心がけて書きこんでます。ともあれ、ご自愛ください。 (04/09/19 23:02)
4と5 私はまだ回復の途上ですが、このほど周囲の方々の善意と悪意(?)により、書く生活に戻る羽目に(泣)。おたがい頑張りましょう。 (04/09/17 23:04)
MOTOAKI ぺけぽむさんの日記を読んで過去の自分の姿を思い出しました。自分は決していい院生ではありませんでしたが。私の書いた修士論文は3万字程度でした。原稿用紙100枚もいかないものだったと記憶しています。確かに論文提出を控えた院生にとってこの時期は大事な時期だと思います。頑張っていい論文を書き上げて下さい。 (04/09/11 23:37)
韮山 なんだか卒論を思い出しました。(^^A) でも、修士だから、比べ物にならないくらい難しいことやってるんでしょうね。頑張ってください。 (04/09/11 02:40)
ぺけぽむ 考えながらだと大体一日に1000字くらいずつしか書けないので結構遅めです。早かった時は5000字のレポートを一晩で挙げたことがあるんですが…。 (04/09/10 17:39)
幸運を祈る 60000字ですか。凄い原稿用紙150枚ほどですか。大変でしょうが、頑張ってください。 (04/09/10 14:43)


 ■ 2004/08/18 (水) 意味について(三)


前回書いてから既にほぼ一月が流れ、私はその間まったく日記を更新しませんでした。
更新しなかったのはまさに私の思考がそこでとまってしまったからに他ならず、要するにその間私は遊びまくっていた、というのではありません。学生時代最期になるからと言う理由でサークルの練習に顔を出して一年生に「あのおじさんはだれ?」と言う顔をされ、懲りずに打ち上げコンパに参加して調子に乗って二次会まで出て行き、後輩の人生相談に強引に乗り、久しぶりにふらふらで家に帰ったり…と言う感じでした。
こう振り返ってみるとまさに遊びまくっている以外の何者でもなくいまや前言撤回やむなし。いや、それなりに勉強はしていましたが。

というわけで、先月の中断の続きです。

さて、くどく繰り返しますが、意味1は有用性です。
で、意味2は、まだその定義すらはっきりしていません。ただ、意味1が示唆する有用性こそが人間にとっての意味の全てであるということに対して、その‘全て’の「そと」を目指していることは確かです。

私の生活と言うか、人生に関する限り、私にとって有用であるものの「意味」は、私が死ぬとともに消えてしまう。私にとって、の「私」が消えてしまうからです。ただ、一般には信仰の問題と言うことになりますが、自分の死後になお未だ何かが残るのかと言うことを考えるとき、問題は既に有用性のレベル自体を超えてしまっています。自分の死後のことを考える、ということ自体が、すでに有用性をいともあっさりと打ち抜いてしまっているのです。自分がいない世界のことを真摯に考えれば考えるほどそうならざるを得ない。何故か? 自分がまったくもっていなくなった世界とは結局のところ誰も自分のために泣いてくれず、思い出してもくれない世界のことです。もともと死ぬと言うことはそういうことで、あたかも私など生まれもしなかったようになってしまう、そういう世界が究極的に、どん詰まりまで私の死んだ世界です。
考えれば考えるほど、私にとって何の関係もない世界に思えてきます。

しかし、ここで目を転じて見ます。私が生きている世界では、実に多くの死人が既に出ています。実際数え切れないくらい、人類開闢以来片っ端からみな死に続けている。人間の最終的な死亡率は100パーセント、というブラックジョークの一つも言いたくなります。しかしそうであるにもかかわらず、われわれの祖先の多くは大して自棄も起こさず、ということはどうせ死ぬんだからどうでもいいやとは言わずに、それなりに頑張ってきたらしい。そういう彼らも、実際には自らの死を超えたところに意味があるのか、とまったく考えなかったとは思えない。いや、正確には、「自分の死」と言うものが「自分の世界(有用性に縛られた世界)に開いた穴」とは思っていなかったのではないかと思えるのです。そうでなければとっくのとおに「文化」と言うものの意味がなくなってしまうように思えるからです。なぜって? つまり、自分にとっての有用性を超えてレベルのところに意味が成り立つのでなければ、わざわざ後世まで残ってしまうような芸術など、人間の誰もつくろうとはしないはずだからです。

つまるところ、かなり強引ですが、私が考えているのは、私たちが自分が生きていく方法を学ぶと言うことは、ある意味で「人間になる、人と人の間に参入する」ということは、この「有用性の外には何もない」という無意味が実際にはなにげなく乗り越えられていることを知っていて、その乗り越えの何気なく手段を実行してきた人間たちの‐その多くは無名の、時間がある程度立てば誰にも思い出されない死者たちの‐それを知らず知らずのうちに体にしみこませることではないかと思うのです。

さて、大いに脱線しました。またしばらく間が空きますが、今度はまた以前のようにミクロの視点でこういうことが言えるか、という、とても私にはムリそうなことをやってみたいと思います。


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4と5 ご体調はよくなられましたか。拝読できるのを毎回楽しみにしております。 (04/08/20 22:17)
ブス子 そう、哲学的に「ケチをつけたり気を引いてみたり」と言われると、今後一切書き込みは控えます。 なんだそんなもんかと、思われるでしょうが、一応精神神経科パニック障害20年歴、薬でもたせて近場を働いてました。 あと、10年前の1月に筋萎縮性即側硬化症で、妹の婿が発病1年で亡くなり、その年の11月に兄嫁が子宮癌で亡くなりました。 別に世間ではたいしたことではないでしょう。 こんな返信を貰うとは思っていなかったので非礼お詫びいたします。 3つの事は繰返しますが漫画の引用、私も納得はしてません。書き込む相手を間違える気を悪くさせる事は度々あるようです。 そういう方にはもう構わないようにします。すいません。 (04/08/20 10:12)
ぺけぽむ レス感謝です。>ブス子さん 私はさしあたりこういうことを考える限りで私であることの輪郭を保っているので、考えるなと言われると死になさいといわれているのに等しいものです。オタク殺すにゃ刃物は要らぬというか。あと、今回の説がどうして「健康な人」に限られると思われたのかはっきりおっしゃってください。私はその状態を経験したことがないのですが、あなたはその経験がおありなのでしょうか。経験の在不在を振りかざして私の発言を批判なさるならまずご自身の経験を素材にされるのでなければ不当で、実際その状態にある方に対して不遜なことと存じます。これらのことを明らかにして戴かない限り、これ以上あなたを指名した上での対話はいたしません。付け加えますと、私はこういうことをかんがえている限りでは特に苦しんでおりません。哲学することとは自分の苦しみを享受することすら解体するものだと考えますので。もし、あなたのおっしゃるとおりの三つのことしかないと考える限り、あなたの人生は本当のその三つしかないことになりますよ。それでいいのですか? 私の物言いにケチをつけたり気を引いてみたりするところから察して、そうではないでしょう? (04/08/19 19:33)
幸運を祈る 次の日記お待ちしています。 (04/08/19 14:30)
ブス子 「生まれてくる事と 生きるという事と 死ぬという事の3つ」しかありません・・。漫画の引用・・。ぺけぽむさんは突っ込みすぎて考えているのか科学的なのか宗教的なのかわからないです。 消滅するのは魂も微分子になる事ですね。 なんか私も年を他の人よりいってるんですが、自分でも大人になった気がしないんです・・。でも、老けてるのは確か・・。それを仕事に逃げていろんな事 考えないように働いて眠る繰り返しだったのが、仕事が無いという壁にぶつかって・・・ああ、何を考えていいやら・・・。今日の説は健康な人間においてですよね。 末期癌患者とかになってくると又考え方はころっと変わってくるでしょう。 境遇境遇において死生観など変わるものと思います・・。 まずは、元気でなによりでした・・・。彼女とか好きな人ができると難しいこと言わないで済みますよ。 でも、何故か無職日記の人達は彼女のいない人が多いのでした。 ごめんなさい、失礼な文章になりました。 私が若ければ彼女になりたい・・なんちゃって・・。 (04/08/19 10:29)
ぺけぽむ 自己レス。前回とはまったくつながっていないことに気が付き呆然(しかも乱文意味不明)。間に挟まっている時期に考えたことをもうちょっと整理しないと…あー、時間は結構残り少ないのに!  (04/08/18 22:44)


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