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不信のときAuthor:伊藤 博文 ( Profile ) 心に愛がなければ、いかなる言葉も相手の胸に響かない。 〜聖パウロの言葉より〜 |
■ 2014/12/23 (火) 運 |
「野球は「運」なんです。私たちはそれを呼び込むのに全力をはらう」
(高松商 若宮誠一監督=故人) 以降は昭和50年代の甲子園大会のあるチームの戦績である。 1回戦 金沢(石川)−東筑(福岡) 金沢のバッテリーは1年生。東筑ベンチはそこに目をつけたのだろう。 塁に出ると足でかき回した。打ったヒットは3本だけ。しかも3番打者が一人で3本打っただけで得点にはからんでいない。四球と盗塁、相手の失策のみで4点。 相手・金沢は10安打を打って食い下がったが、時すでに遅し。 スコアは4対3で東筑の勝利 2回戦 日大二(西東京)−東筑(福岡) 初回いきなり東筑のエラーで日大二のランナーが3塁までいったが無得点。 この試合、東筑は6失策。日大二は再三塁上をにぎわすが無得点のまま試合は進む。 東筑はまた打つ方でもいいところがなかった。初回から5者連続三振という 最悪のスタートである。塁に出ると今度はランナーの牽制死でチャンスをつぶす。 牽制死はこの試合5回を数えた。9回無得点で決着がつかず延長戦へ。 12回、日大二は決定的なチャンスがあった。 四球のランナーをバントで送り、1死二塁。ただこのときランナーがベースに 滑り込むとき足を怪我したらしい。次打者がセンター前へ快打。 二塁ランナーはコーチの指示を無視して、三塁を廻ったが何故かスピードが落ちて 三本間で挟まれアウト。次のバッターはライト頭上を襲う大飛球を放ったが、 ライトの背面キャッチでスリーアウトとなった。 13回裏、東筑はトップの打者が3塁左を破るツーベースを打った。 ここで次打者の送りバントを投手が間に合わない3塁に低投。 日大二は最後にたった一つの失策で敗れた。 3回戦 豊見城(沖縄)−東筑(福岡) 豊見城はこの頃の甲子園強豪校である。実力は豊見城が上であるのは明らか。 初回、4番の中前打で豊見城が先制点。2回の東筑の攻撃である。 四球のランナーをバント二つで3塁に進めた。 投球二球目に3塁ランナーが画面の端からホームに滑り込んでくるのが見えた。 投球は外角へのボールで捕手が取り損ねる。ホームスチールで同点。 しかし豊見城はあわてなかった。3回以降ランナーが塁に出ると着実にバントで 塁を進めヒットで還していった。打力の貧弱な東筑はこの試合も3安打だけ 4対1で豊見城の勝ち。 7回頃からこの「悪運チーム」もこの試合で観れなくなるかと寂しい思いもしたが。 冒頭の言葉に戻ると・・・ 「野球」を「人生」と置き換えるとそのまま当てはまる。 ただ人生には受験や就職のような勝ち抜き戦の場面と それ以外の実生活の部分のようなリーグ戦(勝率で勝ち負けが決まる)的な面 の両面があると思う。 後者については努力、辛抱、我慢の比重が大きいのでは・・・ |
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サイコロ 明けましておめでとうございます。今年も日記を楽しみにしています^ (15/01/01 00:24)
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■ 2014/12/13 (土) 十牛図と中村天風さん |
十牛図(じゅうぎゅうず)は、禅の悟りにいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表したもの。十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)ともいう。中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)禅師によるものが有名。
十枚の図からなる。ここで牛は人の心の象徴とされる。またあるいは、牛を悟り、童子を修行者と見立てる。 1.尋牛(じんぎゅう) - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。 2.見跡(けんせき) - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。 3.見牛(けんぎゅう) - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。 4.得牛(とくぎゅう) - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。 5.牧牛(ぼくぎゅう) - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。 6.騎牛帰家(きぎゅうきか) - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。 7.忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。 8.人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。 9.返本還源(へんぽんげんげん) - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。 10.入店垂手(にってんすいしゅ) - まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。 巻子、画帖など、また掛幅1幅に10描いたものもある。頌を加えたものは少なく、ほとんどが絵のみで、文字をまじえない。中国伝来のものもあるが、日本の室町時代以後の禅僧、また絵画の各派の画人によって制作されたものが多い。 ・さあて、この言葉だ、「あるがままに生きる」 ・とにかく意志力を一日も早く完全に出しうる人間になることを努力なさい ・自分の腹の痛いのを、隣のおばさんの腹が痛いように感じなさい ・人間が心を使うとき、気が散っていることぐらいいけないことはないんであります ・「まあ、いいことだけ絶え間なく絵にかけよ、心に」 (中村天風師の著述より) 自分が中村天風さんを知ったのは、西武ライオンズの監督をしていた広岡達朗さんの 「意識革命のすすめ」を読んでからだ。 この人の経歴は 大名の子に生まれる→旧制中学時代、人を殺して頭山満の玄洋社に預けられる→ 軍のスパイになって中国で活躍。→日本に戻ったがひどい肺病を病む→ 治療法を探して世界中を旅する→エジプトでヨガの聖人にめぐり合う→ ヒマラヤについて行って3年間修業→病を治して日本に戻り会社を経営していた→ 突如感ずるところがあり救世済民の協会を立ち上げる といったところ 若いころはこの人の本をずいぶん読んで努力したが、いつの間にかそれも埃をかぶり・・・時々思い出したように読み返してみたりもするのだが。 天風さんの本にもあった十牛図にあてはめても、今の自分の段階はせいぜい2の見跡か 3の見牛くらいだろう ただ長い人生を生きていくうえで、この人の言葉が支えになっているのは事実 書かれてあることすべてが正しいとは思わないが、大きなヒントが隠れているとは思う 一度しかない人生で優れた「師」に出会えたのは感謝しなければならない。 |
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■ 2014/12/07 (日) 運命 |
人間の運命は実は決められているという考え方がある。
昔読んだ立花隆の「臨死体験」下巻に「マッド・サイエンティスト」と呼ばれた 科学者のジョン C リリーの体験が書かれてあった。 脳と心の関係を研究していた彼(リリー)は、自分の脳に電極を差し込む、 またLSDを服用しサマディータンクという重力が0になる特殊な浴槽で 瞑想する等の過激な実験を繰り返していたが、 ある日、瞑想中に二人の「ガイド」と称する霊的な存在と遭遇する。 二人の「ガイド」が彼に示した世界観はこうである。 ・この世界に実在するものは広大な「知的ネットワーク」のみであり、 人間存在とはこの「ネットワーク」から分派された仮の存在、 死とともに「ネットワーク」に再吸収されることになっている。 ・人間は自由に生きているように見えるが、その運命は「ネットワーク」の 「偶然の一致制御センター」によって巧妙に操作されている。 ・この世界とは「知的ネットワーク」の自己観照の場であり、 ビッグバンをくり返しながらあらゆるものを生み出し経験を重ねてゆく ティーチィングマシンである。 この本を読んだのはずいぶん前のことだからうろ覚えだが、こんな内容だったと思う。 荒唐無稽なSFだが、しかし50を過ぎた今になって思い返すと、 あながち的外れな世界観でもないような気もする。 人間はただ生きているのではなく何かに生かされているという感覚は間違いなくあるし、人間にピグマリオン効果のような力があるのは何故なのか? 中学の時、国語の授業で太宰治の「走れメロス」を教材として習った。 その時、国語の女性教師が「勇者たるもの、運命を信じないんですね。」 と断定した口調で話していたのを思い出す。 だが・・・今の自分には 運命を左右する何者かの存在を否定することはできない・・・そんな気がする。 自分の同級生で成績優秀・スポーツ万能だったが大学入試に失敗し ノイローゼになって自殺した男がいた。かたや以降30年こけつまろびつしながら 愚かしい人の世を歩いてきた自分の人生をありがたいと思わずにはいられない。 生きていくのは辛い事が多いが、それでも面白い |
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ゆうたろう 相当昔に見たアルタード・ステイツって映画でありましたね。アイソレーションタンクに入ってLSD使って感覚遮断して変性意識状態に入っていくみたいな。若い頃はSFやサイバーパンクとか大好きで、他にティモシー・リアリーとかも、雑誌の記事ああれば読むくらいであまり詳しくはないですが好きでした。「ターン・オン、チューン・イン、ドロップ・アウト」って標語も当時良くわからないまますごく気に入ってました。またその関係の本とか読んでみたくなりました。 (14/12/07 21:21)
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