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無色の妄想日記

タイトルを変更しました。

現在、福島県郡山市に仮寓させていただいている。
ありがたいことです。

旅をしている時の状況が時に思い出される。泊まる当てもなく、地図を片手にひたすら歩いた。雨の中、強風の中、雪降る中、そして、暴風雪の中。ひたすら歩いた。歩いている時には不思議に恐怖感や切迫感は無かった。何とかなるという気持ちですね。

今、雨、露、雪、風を凌げる部屋を提供していただいている。このことがどれほど嬉しい事か。実感している。

残された時間がいくらほどあるかは判らないが、残された時間を、自身の身魂を磨くために使おうと思う。スピリチュウアルを学んできているのだから、自身が信じる道を進む。    ただ・・・それだけ。

 ■ 2014/12/28 (日) 言葉と感性と民族性と土地


河合隼雄著「日本人の心を解く」より引用 p109
竜との戦い
次のエピソードは、浦島太郎の物語についての西洋人の典型的な反応を明らかにしてくれる。ロシア人の人類学者であるチストフが四歳になる孫の男の子に浦島太郎の物語を読んで聞かせたたときのことである。
チストフが竜宮の描写を呼んでいると、男の子は興味を持たず、何か別のことを期待している様子であった。チストフは孫に何を考えているのかを問うた。すると、孫は主人公がいつ宮殿にいる竜と戦うのかと尋ねた。なぜ主人公が竜と戦わず、お姫様とも結婚しなかったのかが少年には理解できなかったのである。

竜宮、すなわち竜の宮殿と聞くと、西洋人はそこから竜との戦いを連想する傾向があるのに対し、日本人はそこから竜宮の美しさを連想する。竜宮の美しさは、ある類語では以下のように記述されている。
「まず東の戸を開けて見れば春の景色のようでした・・・・・略。」

ロシア少年のように読者が退屈するかもしれないのでこれ以上は物語を続けないがことにするが、ここから先も西の秋と北の冬の景色の長い描写が続いていく。四歳の男の子が、竜との勇壮な戦いの変わりに、花、鳥、霞、露、雪のことを聞かされて、いかに退屈したか想像がつくことであろう。宮殿が竜宮と呼ばれていること以外に竜については何も語られないので、竜はいったいどこにいるのかをいぶしがられるかも知れない。どこにいるのかはわからないけれども、日本の昔話における美しい自然についての長い描写は、西洋の昔話における竜との戦いに相当するものであると思われる。

西洋の物語においては、主人公は竜を退治して、その後に娘と結婚する。結婚は対立物の結合の象徴であるとされている。日本の昔話において結婚があまり重要な役割を演じないのは確かである。しかしながら、四季が同時に共存することは、対立物の結合の象徴でありうる。西洋と日本における象徴の使い方に際立った対比が認められるのである。西洋の象徴が人間から構成されるのに対して、日本の象徴は自然から成り立っている。このことを考慮すると、竜の殺害は自然の破壊を意味することとなるかもしれないのである。

男性的自我と英雄的確立は、母なる自然の破壊を引き起こすかもしれない。とはいえ、日本の昔話において竜との戦いが欠如していることは、日本の昔話が西洋の昔話に比して優れていることを示していると主張するつもりはまったくない。
・・・・略。
引用終わり。

日本人の思考には「自然」すなわち「花鳥風月」が、無意識のうちに大きなウエイトを占めている。まさしく自然的な思考ができている。が、その思考も教育、経済的発展などで、西洋化した思考に偏り始めている。日本人にとって、大きな捩れが思考にでき始めている。自然との共存が普通の思考であったものが、人工的なもの、お金が優先することで、自然の破壊が進み、ひいては、日本人の思考自体の破壊につながっている・・・のではなかろうか!?その反動が、現在出てきている。ものの考え方が唯物主義になっている。

カラスがごみを漁り、ごみを散らかすのでけしからん!と、網をかけたり、カラスの巣を撤去する。カラスなどの鳥たちは、生きるために食べ物を探しているのです。そのような状況に追い込んだのは人間なのです。
人間の乱開発により、餌場、住処を奪われた鳥たち。
狭い空間に押し込められて、えさの奪い合いをする羽目になる。すると、力の弱い鳥たちは数を減らしたり、姿を消すことになる。すると、その鳥たちを捕食していた猛禽類が数を減らしたり、姿をけることとなる。すると、中間層のカラスたちが数を増やす。すると、人間はけしからんという。自然の循環の破壊。その原因を作ったのは人間。まさしく、原因と結果の循環です。

思考の西洋化で、日本民族、大和民族の特性が失われてきているのではなかろうか。男性原理と女性原理。大和の民の脳みそは左右が逆ということも言われている。一般に左脳が計算、右脳が感覚といわれているが、大和の民は逆。根本的に異なる民族を、画一化の方向により、西洋的な思考に向かわされている。言葉、感性を同じように仕様としている。歪みが出てきて当然です。

一人ひとりが、ご自分の脳みそをご自分で使い、考え、感じ、判断できるように再訓練が必要なときではなかろうか。

ちょっと余談だが、私は鳥たちにえさをやっている。
次第にカラスたちが集まってきて出した。が、下宿前のごみ集積所を荒らすことは少なくなっている。現在ではほとんどない。(春から初夏にかけては鳥たちも子育ての時期だから、鳥の親も必死です)
阿武隈川のほとりにカラスたちが多く集まりだした。鷹も来ている。
その様子を地元の人たちがうわさをしているようだ。以前、市役所に訴えるぞ!という人がいたようだが、市役所の担当は来なかった。

人間の力に抗すべき力を持たない鳥たち。食べ物がある所に集まる。
人間が抗すべき力を持たない自然災害。大きな自然災害においては、避難所に人間は集まり助け合う。どこが違うのでしょうね!?


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