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なんくるなるさぁ〜!


 ■ 2004/12/08 (水) 「認められたい」という気持ち


少し忙しくしていまして、ほとんど更新することができませんが、
前回の話の少し補足を書いておこうと思います。

「自己評価」が他者の評価に多く依存することによって、
他者に「認められたい」という気持ちが強くなります。
そして他者に認められないがゆえに自己評価を低くしてしまうことが起こります。
特にそれが親子関係に多く見られ、
それが前回の日記の中の話に結びついてくるわけです。

人は他人に認められようとすると必要以上に力が入ります。
そして実際にうまく行かないと自己評価を低くしてしまいます。
時にこれがスムーズに行っていないと人を説得にかかったり、
あらぬ被害妄想にさいなまれることもあるようです。

自己評価を高めることはとても難しいということを私はよく理解しています。
前回「簡単なことだ」といったのは言葉では簡単だという意味です。
むしろそれを実践することはとても難しいことはよくわかっています。
言葉でこのあたりはとやかく言うよりも、
とにかく実践あるのみだなぁと思っています。
その辺については私の実践がうまくいってからまたお話しすることにしましょう。

4日分ぐらい前から少し書く種がなくなってきた感じがしていました。
今吐き出したかったことはそれまでに吐き出した感じがあったからです。
決着を着けたかった過去の思いはある種の決着がついた感じがしますので、
今までのように毎日ではなくこれからは気の向いた時に更新をするつもりでいます。
これまでいつもご覧くださっていた皆さん、
更新されたときはまた見て一声かけてください。よろしくお願いします。


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大人の少年 心の中が少しはすっきりしたようですね・・、「自己評価が・・特に親子関係に多く・・」このことは何かの本で読んだ事と同じようですが、{親が子供に要求を出し、それに答えようとする子供、この繰り返し生活がやがて、親からの要求に子供がこたえることが出来なくなったらその先は・・やがて引きこもりなどの現代の特有の人間になってしまうようです。その要求にこたえられなくなった時の心理状態を想像すると怖いような気がします。 (04/12/08 22:16)
幸運を祈る 忙しいのですか〜。お体を壊さないようにです。 (04/12/08 20:03)
ぺけぽむ ふむ、前回少し解りにくかったですが、self estimeとは「自分に関する評価」のニュアンスが強かったのですね。貴方の道は、結局少しずつ自信をつけていけばいいということになるのだと思いますが。他人から下される評価を基準にして行動すると、自分の存在価値を他人に人質に取られたような形になりますよね。評価が高いうちはいいですが、いったん低くなるとこの場合生殺与奪の件を他人に譲り渡していることが露骨に感じられるかと。ストレスを猛烈に増やす生き方だと思うのですが、競争社会とはそういう世の中だったりするんでしょうね。最終的には力ずくで「認めさせた」人が勝ち残る世の中。そういうストレスをかぶるか、それとも承認(評価)する・されるのとは別の関係を作っていくかのどちらかの覚悟をしたほうがいいなと、個人的には思っています。他人を自分の幸福やプライドの手段としないで生きられる世の中なら、こんな無意味な苦労は無いでしょうが…。 (04/12/08 10:52)


 ■ 2004/12/05 (日) 自己評価


「セルフ・エスティーム」という言い方をします。この「自己評価」。
前回の最後に私の自己評価をお話しすると予告しておきましたので、
それをお話しようと思います。

私は「自己評価は低い」です。
低くなかったら今こうして日記を書いていないでしょう。
それは前々回にお話した「人は鏡」を使ってもわかります。
私のおかれている状況は一番初めの日記でお話しましたが、
決して好ましい状況でありません。

教員時代もそうでした。専任と同じだけ、いやそれ以上の授業時数を持って、
仕事もしていたのに、給料は雲泥の差でした。
本来受け取るべきものを受け取れていないというは、
まさしく「自己評価が低い」現れであると私は考えます。

自分の願いが思いのままに叶うということは、
自分で自分に「その思いが叶ってもいい」と許可を与えたからだと考えられます。
表面意識では許可を与えている思っていても、
案外人というのは深い部分でそれを受け取りたくないと思っていたりするものです。
受け取りたくないというよりは「受け取るに値しない」と思っていたりします。

ある特定の願いがあって、叶わない状況がもしありましたら、
こんなことをしてみてください。
「○○が叶わない。なぜならば××だから。」
○○には願いを××には理由を思いつくままに入れてみてください。
案外たくさん出てくるはずです。

大抵の理由の根底にあるのは
「受け取ることが怖い」と思っている意識だったりします。
「こんなにいいもの受け取れない。受け取ったら悪いことが起こるかもしれない」
なんて考えているかもしれません。信じられないでしょうがよくあることです。

もちろん「受け取るに値しない」と思っているかもしれません。
とても多い「受け取るに値しない」理由には女性の場合「私が女だから」とか、
小さい頃繰り返し繰り返し「お前は悪い子だ」と叱られていたことが、
深い部分にしみこんでいて、
「自分は悪い人間だから受け取ってはいけない」と思ったり、
探ってみると本当に不思議な理由が出てきたりします。

こういった不思議な理由が何層にもわたってあるので、
ここを掘り下げていくのは本当に大変です。
いまだに私にも私の本当の理由がないかはわかっていません。
可能性は挙げればきりがないものだったりしています。

結論は自己評価をただ高めればよいのです。ただそれだけなんです。
あっけないんですが、これが難しいのです。
このことをずっと考えています。
それこそいい案があればどなたかにお教え願いたいと思ったりもしています。
まぁそれでも少し糸口は見つかりつつあるのですが…。
そのことが次回お話できるかわかりませんが、
今の私の関心はそこにあるとお思いください。


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なんくるなるさぁ〜 大人の少年さん>日本語では「自己評価」という言い方をしますが、文字通りでは本来はありません。今回の日記の冒頭にも書きましたように、「セルフ・エスティーム(Self-esteem)」と心理学の世界では呼ばれることのことをお話しました。この「セルフ・エスティーム」に適切な日本語訳がなく、このことを題材にした心理学の本のほとんどが「自己評価」と訳されて書いてあります。概念的には大人の少年さんがおっしゃるとおり「自己認識」が大前提にあります。不当に低いことか困難な現実を引き寄せてしまっている人が、特に女性の場合多いことから、女性について言及されている本が多く出版されています。「…に値しない」というのが宗教的(?)哲学かどうか私にはわかりません。特定の信仰をもっているわけではありませんので。ただ今までほとんどお話していない私が学んだ心理学の世界は、土台となる部分に「キリスト教」的概念が入っているようですので、そのせいかもしれません。アメリカ人がアメリカ人のために始めた心理学ですので、キリスト教の概念と向き合う必要がどうしてもあったようです。 (04/12/08 01:24)
なんくるなるさぁ〜 ぺけぽむさん>解説をありがとうございました。 (04/12/08 01:16)
大人の少年 「結論は自己評価をただ高めればよいのです。ただそれだけなんです。」この文面の”ただ、高めればよい”は人によっては都合のいい自己評価とも受け止められますし、文章からも都合のいい自己評価と読み取る人がいると思います。今回の日記では、自己評価という言葉を使っていますので、あえて・・評価という言葉を私も使いますたが、本来は自己評価というより、自分がどんな人間なのかを認識する事(自己認識)のほうがもっと大切だと思います。そもそも「・・・に値しない」先の日記も今回の日記も使っておられますが、少々宗教的哲学にこだわりすぎているように思いますが、いかがでしょう?(勿論、信仰の自由は尊重しますが・・) (04/12/06 21:06)
ぺけぽむ 縋っていないというのはあなたについて当てはまると思いますし、コメントにはそう書いておきました。>…縋っているのではないかと思うのです。それが出来なかった貴方は…としているでしょ? 貴方が縋っていると言うのは誤読です。縋るという言葉にむやみに反応なさいませんでしたか?思いを剥ぎ取るとは、長めに引用しますと、>もちろん「受け取るに値しない」と思っているかもしれません。とても多い「受け取るに値しない」理由には女性の場合「私が女だから」とか、小さい頃繰り返し繰り返し「お前は悪い子だ」と叱られていたことが、深い部分にしみこんでいて、「自分は悪い人間だから受け取ってはいけない」と思ったり、探ってみると本当に不思議な理由が出てきたりします。こういった不思議な理由が何層にもわたってあるので、ここを掘り下げていくのは本当に大変です。とある部分ですね。外在的なものに言及のない(エゴイスティックと言うことではないが、ある意味で自己中心的な)自己言及なので結論がです、要するに内閉してしまって現実的な内容をもてないと言うことです。つまりそのやり方では現実に向かうための針路は出てきません。ただ、どうすればいいかという基準は、多分どうしたやり方をしても実定的には出てこないです。それは基準は自分の外にあるからで、そういう審及を自分で自分に与えるのは困難なのです。自分の存在を貴方が自分でこしらえたわけじゃないでしょ? それと一緒です。つまり、手痛い現実の結果から「これをやってはいけなかった」という後知恵を受け取ることは出来ますが、しかし実際の審判は自分の思いも拠らないところでなされているので、そのルールを完全に把握することは出来ないのですよ。ただ、結果は行為すれば必ず出てくるので、「やってはいけないこと」の共通則を見出すことは出来るでしょ? ルールが不明な以上、行為はその都度賭けにならざるを得ないけど、ただ過去の経験からオッズを下げることは出来るはずです。で、最大の懸案である「自分を丸ごと見据える視点」ですが、これは、本当は、不可能です。審及の基準が自分の中にないという前提からすれば、自分を丸ごと見据える視点というのは、実際には自分の中に創設できないのです。自分の身の上におきることの一切を知ることが出来るのは人生が完結する瞬間に他ならないはずだからですね。人生の途上にある生者は、未だ生きている以上、仮想的にそれを抱くことが出来るだけです。しかし、仮想的であれなんであれ、「自分は死ぬ」という把握を敢えてすることで、自分がいましている様々なことどもの意味を、そこから規定することが出来ると思うのです。まあ、「死を想え」という格言みたいな感じですが、要するに死ぬ事を意識して関して覚悟すればいいということです。死を前にしての蛮勇みたいなことではないですので、その点、よくお聞き届けください。 (04/12/06 11:08)
なんくるなるさぁ〜 大人の少年さん>過大評価も過小評価も確かによくないです。ただここで問題にしているのは、「望みが叶う」といったときに、叶わない現実があって、それが叶わないのが「自分は受け取るに値しない」と考えていることにあるのではないかという視点から、自己評価について触れています。都合のいい評価の話とは少し場面が違うように思うのですが、いかがでしょうか? (04/12/06 02:00)
なんくるなるさぁ〜 幸運を祈るさん>考えなくてもわかってたりする部分を意識してみませんかという提案であったりします。 (04/12/06 01:57)
なんくるなるさぁ〜 ぺけぽむさん>こちらこそ、はじめまして。長いコメントをありがとうございます。「縋る」…すがると読むんですね。私ははじめて知りました。まずすがっていないので、そこは誤解かと思われます。それから「思いを自分から剥ぎ取りすぎる」とはどのことを指されているのでしょうか?それから一番最後ですが、自分を丸ごと見据えられる視点を創造すればいいとあります。具体的に何をするのでしょう? やるかどうかとおっしゃっていますので、ぺけぽむさんはなされているのでしょう。ぜひお聞かせください。 (04/12/06 01:56)
なんくるなるさぁ〜 ロールキャベツさん>是非考えてみてください。自分を責めるにはそれなりの理由が必ずあるものです。 (04/12/06 01:50)
なんくるなるさぁ〜 th1969さん>それは素晴らしいことではないですか? そういう方がたくさんいる方が私はうれしいです。 (04/12/06 01:48)
大人の少年 自己評価は、過大評価も過小評価も良くないですね・・。私も含め最近は、自分の都合のいいように評価してしまう人が多いように思います。 (04/12/05 22:23)
幸運を祈る 自己評価ですか〜。自分はあんまり自己評価した事ないですね・・・考えなくてもわかってたりです・・・ (04/12/05 18:57)
ぺけぽむ 初めまして。とりあえずコメントを。まあ、悪い評価が出てくるのは、「評価」するからでしょうね。もちろん「良い評価」も評価するからこそ出てくるのでしょうけど。「評価」しなければそもそも上だの下だの考えなくていいわけですから。そうやって「良い」と「悪い」の二つの意味づけだけで自分の存在を割り切れるはずがない。そうやって考える地平から離れない限り、恐らく貴方は穴倉から出られないのではないかと。要するに良いか悪いかなど気にするな、ただ上手く行ったときのことは手本としてよく覚え、うまく行かなかったことは改善の材料としてとっておく、それでいいと思います。成功哲学に縋る人の多くは自分の道に自信がないので無理して「これこそ道」と信じ込むために縋っているのではないかと思うのです。それができなかった貴方は、たぶん自分に絶対にウソのつけない人なのだと思います。いいことだと思うのですが、しかし純粋であろうとして思いを自分から剥ぎ取りすぎると何が自分の欲望だったのか解らなくなると思います。現に前回の書き込みでは、何が「成功」なのか良く分からないでおられるようですし。別に「成功」なぞせんでもでよいと思うのですが。「成功」しないと生きてる意味がないんでしょうか。「成功」が価値だったら「成功」しないと自分の評価っていつまでたっても上がらないんじゃないですか? 今貴方がたどっている道は単なる自分探しに堕しかけているのではないかと危惧します。良いだの悪いだのという「評判」のレベルではなくて、自分を丸ごと見据えられる視点を創造すればいいと思います。出来るかどうかではなくて、やるかどうかの話です。 (04/12/05 17:49)
ロールキャベツ 自分自身をせめなかったらどんな悪いことがあるのか・・考えてみます。 (04/12/05 13:13)
th1969 ここの日記書きに自己評価の高い人がいたら、その人は早いうちにここを去る可能性の高い人でしょうな。 (04/12/05 12:08)


 ■ 2004/12/03 (金) カラクリ


「成功哲学」に関する本などたくさん読んでいるという方はとても多いと思います。
現に以前はマニアしか知らなかったジェームズ・アレンの本がたくさん翻訳されたり、
「お金」に関係した本というのもたくさん出版され、
ベストセラー・ランキングの上位を占めているのを目にされたことがあると思います。
以前にもお話しましたように、私もこれらの本をたくさん読みました。
まずは少し本の話をしようと思います。

バイト先の上司がこうした本が大好きだったこともあって、
その後「能力開発セミナー」を受講してからたくさん読んだとお話しました。
最初にその上司に薦められて買った本はナポレオン・ヒルの『成功哲学』でした。
おそらく今は絶版になって、違うタイトルになっていると思いますが、
ハード・カバーで買うには買ったけど読めなかった本です。

その後「能力開発セミナー」に参加して、
終了後にセミナーのトレーナーから何冊か本を薦められました。
そのうちの一冊がジョセフ・マーフィーの『マーフィー100の成功法則』でした。
こちらは後に「大島淳一」というペンネームで翻訳したことをカミングアウトした、
著名な評論家かつ大学教授の渡部昇一さんの訳本です。
この本は今は文庫になっていますが、とてもわかりやすい内容でした。

この本を読んでから、ロバート・シュラー、ウェイン・W・ダイアー、
デール・カーネギーなと、著名な成功哲学の著述家の本を片っ端から読みました。
同時期にバイト先の上司が高額のジョセフ・マーフィー・プログラムを
購入したこともあって、テープもたくさん聴きました。

本やテープにならって、たくさんの「アファメーション」を作りました。
そして毎晩寝る前に唱えて寝たりしました。
手帳などにそれらの言葉の数々を書き込んで、通勤電車の中で眺めたりもしました。
しかしですね、自分の「思い通りに」願いが叶ったことはありませんでした。
もちろん以前ご紹介したように、「忘れた頃」に叶ってはいますが、
タイミングが悪かったり、100%満足な状態というわけではありませんでした。

そしてある日「マーフィー先生」と子供たちに呼ばれるほど、
成功哲学オタクになっていたバイト先の上司と話をしていると、
興味深いことを教えてもらいました。
そのアイディアは無能唱元さんの『夢かなえます』という本を読んでのことでした。

無能さんは仏教の概念でいう「阿頼耶識」の活用法を説いた本を書かれている方です。
仏教の世界では「意識」について非常に細かく分類されています。
この「阿頼耶識」は「潜在意識」の深い層のことを指しているそうです。

無能さんは本の中で図にして解説しているのですが、
どんなにポジティブな言葉でも唱える人の「心」すなわち表層意識がクリアでないと、
ゆがんだものになってしまい、思ったように願いが叶わないとのことでした。
つまり潜在意識の世界を活用することはそう簡単ではないということを、
この本で無能さんは教えてくれているわけです。


以前にもお話しましたが、よく「ポジティブな言葉かけ」を毎日していて、
日々の生活にもポジティブ・シンキングを心がけている人が、
突発的な出来事に出会って、ネガティブな気持ちになって、
「ネガティブに思ってしまった」と自分を責めることがあります。

ネガティブな気持ちになることよりも、
実は「自分を責めること」の方が本当は問題なのです。
どんなにポジティブ・シンキングをしていても、
自分を責めた瞬間にそれまでの苦労が水の泡になります。

成功哲学本はどなたの著作を読んでも基本的なメッセージは同じなのですが、
多くの方がいろんな本を読んだり、同じ本を繰り返し読まれるのは、
これも以前お話しましたように、人間はとかくネガティブに考えがちだから、
それを相殺するために読んでいるわけです。
それと同時にやはりなかなかうまくいかないことが、
それらの本を読み続けることになる原因になるように思います。

私はその後実践的な心理学の世界に足を踏み入れるようになりましたので、
成功哲学からは離れることになりました。
もっと深い意識の領域にこそ、根本的な原因があるということに気が付いたからです。
そちらの話は機会を全く別にしていずれお話しすることにしましょう。


成功哲学のアイディアがまさしく成功するかどうかの鍵について、
今回は一言触れて終わりにしたいと思います。
その鍵は「自分自身を自分でどのように評価しているか?」ということです。
これが全てです。
先ほど「自分を責めた瞬間にそれまでの苦労が水の泡」といいました。
「自分で自分を責める」というのも評価のひとつです。
是非この日記をご覧の皆さんも
「自分で自分をどのように評価しているか?」を考えてみてください。
そしてその自分は「成功するに値するか」を考えてみてください。
きっと私の言わんとしていることがご理解いただけるかと思います。
私が私自身をどう評価しているかは次回お話しすることにします。


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なんくるなるさぁ〜 幸運を祈るさん>ポジティブ・シンキングの話はしていないのですが、どうも幸運を祈るさんはそこにこだわりがあるようですね。ポジティブ・シンキングは難しくはありませんよ。そうすることによって結果が出てこないことが多いので、どうしたらよいのか、何をそれは意味しているのかをここでお話しているわけです。 (04/12/05 01:24)
なんくるなるさぁ〜 ロールキャベツさん>今までとは少し異なる問いかけをしますから、考えてみてください。「自分で自分を責める」ことで、どんなよいことがありますか? どんな恩恵を受けていますか? また逆の質問をします。「自分で自分を責めなかったら」どんな悪いことがおきますか? どんなデメリットがありますか? まずこの問いを考えてみてください。そして、「深層心理」とありますが、まずは今私が投げかけた問いから1つ1つ、ロールキャベツさんに働いている深層心理を明らかにしてみましょう。ぜひやってみてください。 (04/12/05 01:22)
幸運を祈る ポジティブシンキングって大変なのですね。前向きに考えるって簡単にみえて、とても難しいと感じましたです。 (04/12/04 13:03)
ロールキャベツ ↓で「思い」と書いてしまいましたが、深層心理という意味です。 (04/12/04 10:47)
ロールキャベツ どうしたら自分で自分を責めることをやめられるのでしょう。自分で自分を責める、自己評価の低い自分の思いとは、どんな思いの反映なのでしょう。 (04/12/04 01:58)
なんくるなるさぁ〜 大人の少年さん>早速のコメントをありがとうございます。「成功」…なんでしょうね。今回の日記でいうところの「成功」は「自分の望みが望み通りに叶うこと」と思ってください。しかも自分も他人も「幸せ」にする「望み」が叶うと思ってください。もう少し言葉を補います。誰をも悪くせずに、少なくとも自分を心地よくさせる望みだと思ってください。 (04/12/04 01:11)
大人の少年 一つ質問なんですが、なんくるなるさぁ〜さんにとって「成功」とは、なんですか?私は自分が成功するとかしないとか、考えた事はありませんし自分が成功するに値するかどうかも考えた事はありません。そもそも、何をもって成功と言えるのかどうかもわかりません。次回の日記、楽しみにしています。 (04/12/04 00:23)


 ■ 2004/12/02 (木) 人は鏡 … 私の場合


前回は変換ミスもあり、そのミスのおかげで違う意味に取れることがわかりました。
失礼致しました。もしまだ修正後をお読みいただいてないようでしたら、
是非前回の文章を読み直していただけると助かります。

教員時代は毎日考えられないくらい数の「鏡」が目の前に存在しました。
ただその「鏡」を有効活用できたかというと、できないことが多かったなと思います。
もし今の心境で教壇に立てていたら、有効活用ができるかもしれません。
生徒達の退屈な態度、打算的な学習への取り組み、反抗的な態度。
その全てが素晴らしい鏡であったと今は振り返ることができます。

また「嫉妬」というのも、「鏡」ということをよく理解していると、
全くもって必要がないものだといえます。
「鏡」ですからね。自分にもその嫉妬している人の持つ、
嫉妬するぐらいよい部分が自分の中に眠っているわけです。
それが本当にほしいならば、手にする可能性があるわけですよね。
自分がそれを本当にほしいと望めば…。

嫌な出来事、不満なことは原因を外に求めがちです。
そして外に求めているうちはなかなかそれが変わっていきません。
逆に自分に「思い」に責任があるという立場に立つと、
案外簡単に状況が変わったりします。
問題は自分の内側にあるわけですから変更可能なわけです。
その変更方法はこれまでお話してきた
「ポジティブ」な言葉かけが代表的なものでしょう。

ただそれでも状況が変えられないことがあります。
むしろそのケースの方がはるかに多いように思います。
次回はそこに迫ってみたいと思います。


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なんくるなるさぁ〜 幸運を祈るさん>是非ご自分の内側を見つめてあげてみてください。 (04/12/03 21:30)
なんくるなるさぁ〜 大人の少年さん>日本語は、読み方つまり「音」と文字そのものにも意味がありますからね。本当に深いです。 (04/12/03 21:30)
なんくるなるさぁ〜 ロールキャベツさん>いただいたコメントの後半部分への返信です。私も自分に自信がないので、ロールキャベツさんのおっしゃっている事柄はよくわかります。鍵は「自分は自信のない人間だ」とご自分で認めてしまっているところにあります。1つ前のレスでお話しましたように、「行動」ではないのです。「思い」がしっかりとしていれば、自然と現実が引き寄せられ、しかるべき行動を「自ずと」とることができます。もし今の状況を不満足な状況に、ロールキャベツさんがお思いでしたら、核にある「思い」に問題があると理解してください。「自分の理想の姿」とあります。この姿は「自信のない自分の姿」とイコールですか?考えてみてください。この先はこの後の日記でお話させていただきます。 (04/12/03 21:26)
なんくるなるさぁ〜 ロールキャベツさん>実をいいますとね、「ポジ」「ネガ」の概念では私の話していることは、そしてロールキャベツさんが陥ってしまっている状況は解決できないんです。本当は…。そのこともお話したくて、一連の話をしています。私の中ではその先の先ぐらいまで疑問があって、それに答えを出そうと、今こうしてこの場をお借りしてお話させていただいている次第です。現段階で言えることは、大人の少年さんとのコメントでのやり取りでも出てきたことですが、「ポジ」な行動が大切なのではなくて、「ポジ」な「思い」が大切なんです。自分の「思い」に責任を持つということなんです。今度お話しますが、心理学用語で「アカンタビリティー」といいます。日本語にすると「自己責任」という言葉になりますので、イラクの人質事件で話題になった「自己責任」と同じように思えるかもしれませんが、ここでの「自己責任」は内面の問題です。もし不満の原因を外に求めると、責任を外に転嫁することになります。これが悩みや苦しみの原因となってしまうわけです。だって、他人は変えられないじゃないですか。自分が他人によって変わりたくないでしょ? 好ましくない現実を変えるには自分の内面を変えるしかないわけです。そのことを今回は「人は鏡」という言葉で、お話させていただいた次第です。  (04/12/03 21:18)
幸運を祈る 自分の内側に確かにあるかもしれないですね。 (04/12/03 18:56)
大人の少年 人間、気持ちの持ちようで、心が楽になることもありますね・・でも日本語って状況によってはその言葉に、重みを感じたりします。 (04/12/03 13:16)
ロールキャベツ 不満の原因を外に求めがちとありますが、そういう考え方自体、私にはポジに思えます。私はいつも自分に自信がないので、全部自分のせいだと思って落ち込んでしまうのです。他の人のせいだと思えたらどんなに楽かと思います。自分に自信のない人間なので自分の内側の変更は常に思っているのですが、うまく行動に反映できません。それがまた、自分の理想の姿と、できることとのギャップとなって自分を苦しめます。自分を変革したいために時々いろいろなものに取り組みますが、思うようにできないという壁につきあたり、自分の自信をますますなくす原因になってしまうし、一緒にやってきた仲間に迷惑をかけてしまうことばかりです。そうやって次々と友達を失っています。勝手にいろいろ書きましたが、抽象的すぎたらごめんなさい。 (04/12/03 08:50)


 ■ 2004/12/02 (木) 人は鏡。類は友を呼ぶ。


「人は鏡」と言われますよね。
私がこの言葉について強く意識するようになったのは、
以前お話した能力開発セミナーででした。
近頃はテレビや雑誌で引っ張りだこの江原啓之さんは「類友の法則」、
つまり「類は友を呼ぶ」という言葉で同様のことを言っていたりします。
この考え方はいろんなことに応用できますよね。
これまでお話してきた「成功哲学」などもこの応用であったりしています。

今日、もう日付の上では昨日になりますが、今年の流行語大賞が発表されました。
その中に「自己責任」という言葉がノミネートされていましたが、
この「人は鏡」という言葉はまさしく「自己責任」について言っているように、
私には思えます。もちろん流行語にノミネートされた意味とは実際は異なりますが…。

「自分の心のあり方が、ある特定の現実をひきつける」というのが、
ここで言う「人は鏡」であり「類友の法則」です。
もし望まない現実が目の前に現れているのならば、
まずは自分の心のあり方に目を向けてみる必要があるということを示唆しています。

私は今目の前に現れている現実を好ましく思っていません。
これは前回もお話しました。
「人は鏡」の考え方に立つと、
今の自分の心のあり方が間違っているということになります。
これまでの言い方であれば自分の「思い」が望む現実をひきつけるには、
間違った「思い」を持っていることを示していることになると思います。

この間違った「思い」を、肯定的な言葉で、きれいな言葉で、
打ち消してしまおうというのがこれまでお話してきた中身になります。
したがって、肯定的な言葉かけがうまくできずに
「また否定的なことを考えてしまった」と自分を責めれば、
これもまた肯定的な言葉かけとは正反対になりますので、
まったくもってナンセンスになるわけです。
失敗したって言い訳です。きれいな言葉をかけ続けるほうが
そもそも難しいわけですから…。
自分を責めずに、自分を「判断する」ことなしに、
ただ自分の使う言葉に気をつければいいというのが、
これまでお話してきた内容になるわけです。

まずはこれまでの話と「人は鏡」との関係を今回は明確にしてみました。
次回は少し角度を変えてお話してみたいと思います。


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なんくるなるさぁ〜 大人の少年さん>お互い様だと思いますよ。もちろん、大人の少年さんは私の「鏡」です。大人の少年さんの鏡に私もなっているわけですが…。直接お会いしている人だけが「鏡」というわけではないと思いますよ。私はコメントを拝読しながら、毎回それを強く感じます。 (04/12/03 21:09)
大人の少年 「初めのコメント・・」いいえ、”人は自分を写す鏡”だと思いますよ、自分自身は人にどう写っているのだろうか・・?いろいろ考えさせられます・・。 (04/12/03 11:47)
なんくるなるさぁ〜 大人の少年さん>「鑑」は変換ミスです。「鏡」ですね。失礼致しました。そうすると大人の少年さんの初めのコメントは変わってくるのでしょうか? (04/12/02 22:20)
なんくるなるさぁ〜 幸運を祈るさん>江原さんがどのような人かにあまり関心はありません。霊視をはじめとした不思議な才能をもっておられる方のようですが、ここではあくまで彼のアイディアの中にある「類友の法則」を取り上げたまでです。私は彼のカウンセリングを受けたことはありませんが、テレビなどで拝見する彼のカウンセリングはまがい物のようには感じません。それはクライアントが気付きを得て、時に涙を流す姿を見れば明らかなような気がします。 (04/12/02 22:14)
なんくるなるさぁ〜 大人の少年さん>「人は鏡」というのよくも悪くも「鏡」ということです。目の前に現れる人がどのような人なのか、その人に見るよい部分、悪い部分はまさしく今の自分の心の「位置」を反映しているということです。もしも周りに腹立たしい人ばかりならば、自分の心が、あるいはこれまでの話で言えば「思い」が、それをひきつけるような状態にあるということを暗に示しているとみることもできます。それこそここで「反省」が必要なのだと思いますよ。 (04/12/02 22:09)
幸運を祈る 江原さんって最近よくテレビでおみかけします。あの方はどのような人なのでしょうかね。自分はよくわからないです。 (04/12/02 19:54)
大人の少年 先日のレスについてですが、「人間というのはどうしても物事を「ネガティブ」に考えてしまう生き物のようです。そしてそのネガティブな考えがそのまま現実となって現れてしまう。」 この文章の中にある「物事、現実」とは、言葉や行動が伴うものとして私なりの見解を述べさせていただきましたので・・・少々文章の解釈の相違がありましたね、失礼しました。 (04/12/02 09:51)
大人の少年 私は、「人は自分を写す鏡」ということばを時々ですが意識します、これは自己中心的な言動をすれば、人はそれに反動する。 「人は鑑」、最近は”てほん”になるような人は身近にいませんし、思い浮かびませんが・・・。 (04/12/02 09:39)


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