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不信のとき

Author:伊藤 博文 ( Profile )
心に愛がなければ、いかなる言葉も相手の胸に響かない。
    〜聖パウロの言葉より〜

 ■ 2015/10/26 (月) 砂漠


なんと砂漠の静まり返っていることか。

すでに夜。私はひとりきりだ。


人の砂漠を歩きながら、
ぼくはそこで無数の地の漂流者たちに遭遇した。
あてもなくさまよう者ががいた。追放の重みに押し潰されそうな者もいた。
王国を求めながらその門すら見つけることができず、
砂漠にひとり死んでゆく者の姿をみかけたこともある。
遊牧民が広大な砂漠にほとんど無意味な墓標を作るように
ぼくもまた彼らのために石を積みたいと思うことがあった。

(沢木耕太郎「人の砂漠」より)


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 ■ 2015/10/23 (金) 悪女


コーラ・パール(Cora Pearl、1835年? - 1886年7月8日)は、19世紀フランス第二帝政期の花柳界・社交界で著名だった高級娼婦、舞台女優。本名はエマ・エリザベス・クラッチ(Emma Elizabeth Crouch)。イギリス生まれ。皇帝ナポレオン3世の弟モルニー公や従兄弟ナポレオン公など、フランス宮廷の要人達の愛人となり、豪奢な生活を送った女性で、エミール・ゾラの小説『ナナ』のモデルの一人とされる。

幼少時
エマの生年月日および生誕地については諸説あり、1842年2月23日の日付を持つ彼女の出生証明書は捏造されたものとされている。場所についてもプリマス、イーストストーンハウス、キャロライン地区となっているが、一説には1835年にロンドンで生まれ、1837年に家族ごとプリマスに移り住んだものともいう。
父はチェロ奏者・作曲家のフレデリック・ニコル・クラッチ。ある時「キャサリン・マボニーン」という流行歌を作り、わずか20ポンドで譲渡したところ、この曲が後に大ヒットし、版権を購入した業者が15,000ポンド稼いだと聞いたフレデリックは、ショックのあまり仕事をしなくなり、1849年に家族を残したままアメリカ合衆国へ渡り永住移民となった(父から音楽の才能を受け継いだことは、1867年にオッフェンバックの『天国と地獄』でウェヌス役を演ずることに関連してくる)。母はその後エマをフランスのブローニュにある修道院附属校に入れる。エマは8年間ブローニュで学ぶ中で、何とか通用するレベルではあったが、フランス語を習得する(ただし英語なまりは後まで残り、女優としてのキャリアに影響を与えた)。

娼婦となる
19歳の時、母はエマに英国へ帰り一緒に住むよう説得したが、エマはそれを拒否し、ロンドンの祖母の家に住んだ。ある日曜日、ダイヤモンド商の男に声をかけられたエマは、誘われるままに酒屋に入り、そのまま泥酔した後姦通され、男への憎しみと自らの魅力を認識するようになる。エマはその後祖母の家を出て、しばらくロンドンで自活の道を探していたが、やがて娼婦となり、幾人かの富裕層の男性と出会いを重ねることになる。彼女はそれなりにかわいらしく、社会性や機知に富み、慎重でもあったため、男達の中には単なる夜の関係以上に彼女に興味を抱く者も現れた。
エマはその後、ロンドンの高級娼婦が集うクラブ「アーギルルーム」の経営者ロバート・ビッグネルの愛人となり、パリへ渡海したが、パリの華やかな魅力にとりつかれた彼女はロンドンへの帰国を拒否。パリで「コーラ・パール」と名を変え、演劇界に乗り込む。しかしお色気以外の技能は発揮できず、大した役ももらえなかった。ただし、かつて修道院で鍛えられた社交的マナーが身に備わっており、富裕層の男性に対するアピールは申し分なかった。程なくコーラは、フランス第二帝政下の富裕層・権力者の評判の的となり、女優としてではなく愛人として、彼らの幾人かとロマンスに落ちる。彼女は金を持っていなかったが、当時の宮廷お抱えのデザイナーであるシャルル・フレデリック・ウォルトやラフェリエといった高級ブランドの服で身を飾ることで、富裕層の男性の気を引くことにも成功した。
この時期、第3代リヴォリ公爵ヴィクトル・マセナが、コーラの最初のパトロンとなった。しかしコーラはこの頃から深刻なギャンブル癖・浪費癖を呈するようになる。またマセナより11歳も若いアキル・ミュラ公(ジョアシャン・ミュラの孫)にラブコールを送ったことに嫉妬した公爵は激怒し、彼女の借金を肩代わりした後、愛人関係を終わらせた。コーラは新たな後援者をすぐに開拓し、欧州でも最も富裕な男たちを手玉に取っていく。

絢爛にして放埒なるパリでの生活
熟練技術者の日当が2〜4フラン程度であった当時において、コーラは一晩で5,000フランを稼ぐ娼婦となり、生活はどんどん派手になっていった。この莫大な稼ぎを得るため、コーラは蘭柄の絨毯の上でヌードダンスを披露したり(後述)、シャンパンで満たされた銀の浴槽で大勢の客の前で入浴することも厭わなかった。コーラの英語訛りのフランス語や、明け透けな性格も、多くの男に受け入れられているように見えた。ド・グラモン・カドゥルース公爵は、(当時パリの最高級レストランであった)フレール・プロヴァンソーがもしダイヤモンド入りのオムレツをメニューで出したら、彼女は毎晩通うだろう」と評した。また、ある男がコーラにマロングラッセ一箱をプレゼントしたところ、そのマロングラッセの包み紙がすべて1,000フラン紙幣だったというエピソードも残る[6]。またアイルランドの大地主ジェイムズ・ウェルプリーが貢いだ全財産200万フランをコーラはわずか8週間で浪費してしまったという。
彼女のファッションは、第二帝政期の上流貴婦人らに影響を与え、ドレス・髪型・乗馬服など、彼女を追従する女性も多かったという。ギュスターヴ・クローダンによれば、コーラ・パールは「フランスに近代的なメイクを紹介した最初の女性」であり、ロンドンから取り寄せた化粧品を惜しげもなく使った。まつげや目の周りにペイントを加えるアイシャドー、TPOによる髪の毛の染め分け、白い肌を至上の価値とする時代にも関わらず肌を小麦色に焼くことなど、当時の貴婦人らの常識に反する(そして現在に通ずる)斬新なメイクは、下品・やりすぎという強い批判を受けると同時に、大きなセンセーションも巻き起こしたという。彼女と同じように他国から来た娼婦が、懸命にパリジェンヌになろうと努力したのに対し、あくまで自然体に振る舞ったコーラは、普通の美女に食傷していたパリの紳士の心を捕らえた。ピエール・ド・ラノーは『第二帝政下のパリの愛』で「コーラ・パールはその頃の高級娼婦とは少しも似ていなかった。娼婦が身につけるべき完璧な口調や矯正を軽蔑し、あるがままに振る舞ったのである」と述べている。英語なまりのフランス語も、男性達には魅力的に感じられ「気兼ねしないマドモワゼル(Mademoiselle Sans Gêne)」というあだ名がつけられた。

激しい気性
英国の文芸批評家ウィリアム・フィールドは以下のような逸話を伝える。ロシア出身のパウロ・ドゥミドフ大公は、コーラ・パールを困らせようと、レストラン「メゾン・ドール」で帽子を脱がなかった。彼女は大公のステッキを奪うや、彼の頭を叩きつけたあげく「ごめんなさい。このステッキとても綺麗だったのに壊れてしまったわ」と平然と述べたという。大公は驚くと同時にやり込めてやろうと、コーラのネックレスの真珠が偽物であると主張すると、コーラはいきなりそのネックレスを床に投げつける。飛び散った真珠を指して「さあ、拾い集めて本物であることを確かめなさい。あなたのネクタイピン用に一つ差し上げるわ」と言い捨てて去った。大公は茫然自失のままだったが、レストランで食事をしていた他の貴族たちは、腹ばいになって真珠をかき集めたという。
コーラの気性は激しく、女性としては珍しい決闘経験者でもある。1863年にはセルビア王子の容貌をめぐって別の娼婦マルト・ド・ヴェールと口論になった。二人とも乗馬に自信を持っていたため、乗馬用の鞭を武器として決闘することになった。双方とも顔に多くの傷を受け、一週間は人前に出られないほどだったという。
彼女は後援者からの経済的支援に恩義を謝するどころか、ほとんど罵倒と侮辱をもって返答した。しかし彼女にとっては自然体でしかないその異常な言動は、フランス社交界の男達の間で逆に喝采を浴びることになる。女王然と振る舞ったコーラ・パールに、ナポレオン公はおろか皇帝ナポレオン3世すら頭を垂れて思し召しを伺ったという。ラノーは「彼女は洗練されていない本能の粗暴さゆえに、また自分が奉仕している男達への復讐のために、閨房でも彼らを蔑み、侮辱し、行為の最中も男達を跪かせてその快楽を楽しんだ」と述べており、ミュファ伯爵をなぶりものにする『ナナ』と同様である。
しかし彼女は女王扱いされたとしても、まだ満足できず、女優としての道も諦めていなかった。1866年には以前の失敗にも懲りずに再び舞台に立つ。オッフェンバックの『地獄のオルフェ(天国と地獄)』のウェヌス役を演じ、ほとんど全裸に近い格好で舞台に立ったのである。しかしその下品な振る舞いや声質の悪さは、閨房における上流階級の男性とは違い、全く受け入れられず、無残な結果に終わり、彼女を失望させた。娼婦をへて舞台女優となり、上流階級の男たちをすさまじい浪費で次々に破滅させてゆく姿は、まさに『ナナ』そのものであった。

華麗な男性遍歴
コーラは、オラニエ公ウィレム(オランダ王ウィレム3世の王太子)、アシル・ミュラ(ジョアシャン・ミュラの孫)など、上流階級の錚々たる面々の愛人となった。ミュラ公は彼女に馬をプレゼントし続けた。彼女の自慢の厩舎には1863年から68年まで、乗馬用・馬車用をあわせて60頭以上の馬がおり、英国人の厩務員を大勢雇って、すべての職員に黄色の制服を着用させたという。
彼女と関係を結んだ男達の中でも「背が高くハンサムな方の皇帝」と史家に書かれるほどの色男モルニ公(皇帝ナポレオン3世の異父弟)は、飽くことなき色欲・物欲を持つ彼女にとって、最も知的かつ高貴な愛人だった。1864年、彼女は皇弟の愛人という重要な地位に見合うように、オルレアン郊外のロワレ川に立つボーゼジュール館を与えられ、そこでささやかな幸運の日々を送る。しかしモルニ公は1865年に早世してしまう。臨終に立ち会った友人は、後難を恐れてコーラから公爵に宛てたラブレターをすべてトイレに流したという)。
だがその数年後には、コーラはナポレオン公(皇帝ナポレオン3世の従兄弟。通称プロン・プロン)の愛人となっていた。公はコーラのために、パリにさらに2軒の家を建ててやり、第二帝政崩壊後の1874年まで財政的な補助をしている。彼女はナポレオン公から月額12,000フランを支給されたうえ、シェロー街101番地の邸宅は宮殿のようであり「プチ・テュイルリー」とまで呼ばれたという。ナポレオン公がプレゼントした荷馬車一杯の蘭の花をすべて床にぶちまけ、水夫の服装に着替えて蘭を踏みつけながらダンスを踊ったという逸話も残る

醜聞から没落へ
彼女は莫大な財産を稼ぎ、1860年代後半にはいくつもの家や厩舎を所有し、最高級の衣装部屋や贅沢きわまりない宝石に囲まれていた。英国の口座には、パリの店から取り寄せた下着に対して18,000ポンド以上もの額をつけた請求書が記録されている。
コーラが彼女なりの生活を楽しんでいくためには、大金を惜しまぬ愛人を必要とした。男達は大枚をはたく故に彼女を独占しようと試みる。アレクサンドル・デュヴァルという名の20代の若い裕福な男もまた、37歳のコーラを自分だけのものにしようと言い寄り、彼女を辟易させていた。コーラはデュヴァルと何度も手を切ろうとしたが失敗。デュヴァルはコーラのために大金を費やしてきたにも関わらず、他の男とコーラがくっついたと聞いて嫉妬に狂った。コーラが関係を終わらせようとデュヴァルに最終宣告すると、デュヴァルは1872年12月19日、彼女の屋敷にやってきて玄関先でピストル自殺をはかるという事件を起こした(このときピストルが暴発し、デュヴァルは死亡には至らなかったものの、重傷を負った)。しかし文字通り命を懸けたこの決死の行為に対しても、コーラは誰の助けも医者も呼ぶこともせず、何事もなかったかのように自室に戻り、眠りについたのである。しかしこの事件の噂は瞬く間に広まり、彼女の女優としてのキャリアは突如終幕を迎えることになった。コーラは気分転換と局面打開を兼ねて、逃げるようにロンドンに渡ったが、例の噂はそれよりも早く英国に上陸しており、彼女の身の置き所はすでになかった。一方、同年12月26日のフィガロ紙には「共和国となったフランスから2人の大物が去った。ナポレオン公とコーラ・パールである」と報じている。
ロンドンで高級娼婦を続けようとしていたコーラの企みは失敗に終わり、わずかの金持ちが彼女に興味を示しただけだった。その後彼女はモンテカルロ、ニース、ミラノをさまよったが、再びパリに戻ると、状況の変化に愕然とする。もはや過去の取り巻き連中はとっくに去っており、富のない男性が彼女に声をかけるのみだった。
それでも若年の頃からのギャンブル癖は直っていない。そもそも彼女にはカジノや店から即時の支払いを要求される事態に直面することを想像する能力が欠けていた。しかしもはや勘定を肩代わりしてくれる支援者はいなかった。自暴自棄になったコーラは1876年以降、財産を切り売りして借金の返済に充てる一方、時折街角に出て売春婦に戻るような生活となった。それでもコーラは借金がかさむのを気にもせず、比較的快適な暮らしを10年ほど続けていた。1886年春には『コーラ・パール自伝』がフランス語で出版された。同年、パリのバサノ街8番地で、腸癌により死去した
一番安い棺が注文され、地元の葬儀屋が生活困窮者として葬るようにと指示を受けていた。葬儀屋がその通りにしようとした矢先、一目見て貴族だとわかる風貌の男が、不意に尋ねてきた。

「マダム・コーラ・パールのため最上の葬儀をするのにどれくらいかかるか」

こう言うと男は一束の紙幣を差し出し、「この婦人には最高の葬儀をしてもらわなくては」と言った。帰ろうときびすを返す直前に、さらに彼は次のようにつけ加えた。

「注意しておくが私の代理の者が来て、
あなたが言われた通りのことをきちんとやっているかを見届けますから」

この人物はついに身許を明かさなかったが、コーラは昔どおりの華やかな装いで、パチニョーレにある墓地に埋葬された。



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 ■ 2015/10/19 (月) 阪神


僕が阪神のファンになったのは、あれは優勝する昭和60年の前、昭和59年の時だった。今から31年前である
雑誌「ナンバー」で「阪神は大阪の恥といわれていいのかタイガース!」というゲキが
サブタイトルの阪神特集号があった。
あの号は大事にとってあったのにいつの間にかなくしてしまったのだが・・。

その号には何十人かのトラキチのぼやきと、グラビアで昭和37年、39年の優勝時の白黒写真が掲載してあった。
「藤本のジイさんの胴上げに涙した日」と題されたその文章を今でもよく覚えている。

「それは野生集団といわれた阪神だけのチームカラーだった・・・」
※ライバルチームの巨人が広岡、藤田、長嶋と東京六大学OBだったのに対し、
 阪神はエースの小山、主砲の藤本は高卒、村山は関西大卒だが、吉田は立命館を中退

「そんなチームをまとめあげたのが、藤本の爺さんである。プロ野球では監督一筋の
名伯楽・・・」
「次のバッターは広岡やな、テツ(川上監督)はスクイズをやってきよる。小心な
テツのやりそうなことや」
「テツは不器用なヤツやってなあ。あんたらが打撃の神様なんてはやしたてたやろ。
あれは大きな間違いや。わしが巨人の監督の時代に無理してファーストで使ったんや
そうでなけりゃ今頃、熊本で芋でも掘っているのがオチやで。」
※この時の阪神の監督は伊予ダヌキといわれた藤本(定)、戦前、沢村やスタルヒンをたてて巨人の第一期黄金時代を築いた長老監督

阪神という球団は「ダイナマイト打線」という名称からわかるように、昔から景浦、藤村、別当といった大型打者をならべた強打が売り物の球団だった。
だが僕の好きな阪神はやはりこの昭和30年代後半のチームだ。
たしか37年のチームは総ホームラン数で64本、チーム打率2割2分だったはず、
完全な守りのチームだ
そのチームが37年、39年とも三原大洋を土壇場でうっちゃって優勝した。

見たことのない 吉田、鎌田、三宅、藤本、ソロムコ、小山、村山、バッキー
に憧れ、僕は阪神のファンになった

もちろん今でも阪神のファンだ。今のチームだってバランスのとれたいいチームだと
思う、決して巨人やヤクルトに比べ遜色ない。優勝できなかったのは「はずみ」がなかったからだ。



私の本音
巨人がいらないというのなら原さんに阪神にきてほしい
ありえない話かもしれないが












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めとろん うわー;;;なんかおかしなこと書いたか;;;まちがってましたか?(><) (15/10/22 23:50)
伊藤 博文 可愛いね。めとろんさんは・・・ほんとうに可愛い。 (15/10/22 23:15)
めとろん 父親が近鉄フアンだったのでパリーグの試合によく行ってました。西鉄球場とか大阪球場。江本、小林、西本、ひげ辻、福本・・・ (15/10/20 23:41)
伊藤 博文 「巻紙ローテーション」が「エース酷使の三原魔術」に勝ったというわけだ。しかしこのサイトに昭和30年代の野球を知っている人がいるとは嬉しいね。 (15/10/19 23:26)
R-66Y この時代のタイガースと言えば、吉田、鎌田実の鉄壁の二遊間。名手鎌田のバックトスは有名ですね。 昔にホエールズファンだった私は、昭和37,39年にタイガースに負けずに大洋が優勝していたら、球団の歴史も劇的に変わっていただろうと少し残念な気がしています。 (15/10/19 22:56)


 ■ 2015/10/16 (金) 応用問題


おうよう‐もんだい【応用問題】
1 学習して得た知識を応用して解く問題。
2 算数で、数式を応用して解く文章の問題。


人生にはときどき神様から「応用問題」が出題される。
応用問題というのは一見難解に見えるが、それでも基本問題の変形・複合した
問題である。

基本問題はまあ誰でも解ける
しかし応用問題は解ける人と解けない人が分かれる

ところでこの人生の応用問題が学校の試験とは違うところは
@カンニングOK及びA参考図書の閲覧可という条件付きというところだ

つまり自分に解ける力がなくとも、解法や答えを知っている人に教えてもらえばよい
またわからないところは本を読んで調べてもよいというわけだ

そのかわり神様はどんな事情だろうと「大目にみてやろう」とは決して言ってくれない

解法や答えを知っている人・・・・自分のことを親身に思ってくれる人という
前提がたいせつだが、また自分の側もアドバイスを素直に受け入れる素地が
なければならない

子供の頃、不良性に傾いていた自分は親の再三の忠告を聞かず暴走し、
その結果、大きな失敗をしでかした 
学校でも友人のいなかった自分に助言をくれる人間はいなかった

今思えば、ひとつひとつのマイナス要因が積み重なってとんでもない結果になった
やはり普段の行いは大切ということだろう

それは個人の事だけではない、もっと大きな国レベルの「応用問題」でも同じことだ




















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のみのみくん 自分も独身だったら、かなり違った人生を送っていたと思う。 (15/10/24 00:28)
伊藤 博文 ごめんよ。僕もそうつもりではなかった。 (15/10/20 12:57)
のみのみくん 悪くはないです、しつこくてすみませんでした。 (15/10/20 00:02)
伊藤 博文 悪いな、私の日記にはいわゆる「コピペ」が混じっているよ。 (15/10/18 22:24)
のみのみくん 質問です。伊藤博文さんには奥さんいたのですか?結婚してましたか? (15/10/18 22:19)


 ■ 2015/10/14 (水) ドイツと日本


ドイツと日本は似ている・・・?

NHKの「映像の世紀」というドキュメンタリーが好きでよく見ているのだが、
こと第二次世界大戦に関してはいえば、ドイツと日本は同じ失敗をしてしまった
「負け組」同士である。

チェコやポーランドが相手ならまだしも、ソビエトにまで咬みついたのは
ヒトラーの致命的な見当違いだ。あんな広い国相手に補給が続くと思ったのだろうか。
それは広大な中国の泥沼にはまった日本も同じだ

あの頃の日本もどうかしていたとしか思えない。
ただ大正後期、昭和初期の時代は日本の人口が爆発的に増大し、そのはけ口を
大陸に求めるしかなかったと本で読んだことがある。
その頃の指導者達もそれなりに苦慮していたのだろう

狭い国土だが勤勉な国民性で、現在それなりに裕福な国になっているのも同じ

押し寄せてくる大量の難民をどう処遇するのか
メルケル首相のお手並み拝見

(てっきりベルリンというのは東西ドイツの境界線にあるのかなと
 今まで思っていたが、そうではないのを上の「映像の世紀」で知った)





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伊藤 博文 今度「映像の世紀」は新シリーズ6回で始まるそうだ。楽しみにしているよ。 (15/10/18 22:07)
記入なし ドイツと日本は似ている。WW1でドイツは資源が無かったために敗れ、それを見ておびえた同じく無資源国だった日本は資源獲得のために「無理をして」あなたのような人に知った口でたたかれることになった。 (15/10/15 05:25)


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