日記HOME | TOP タイトル一覧 月別 |
不信のときAuthor:伊藤 博文 ( Profile ) 心に愛がなければ、いかなる言葉も相手の胸に響かない。 〜聖パウロの言葉より〜 |
■ 2015/10/19 (月) 阪神 |
僕が阪神のファンになったのは、あれは優勝する昭和60年の前、昭和59年の時だった。今から31年前である
雑誌「ナンバー」で「阪神は大阪の恥といわれていいのかタイガース!」というゲキが サブタイトルの阪神特集号があった。 あの号は大事にとってあったのにいつの間にかなくしてしまったのだが・・。 その号には何十人かのトラキチのぼやきと、グラビアで昭和37年、39年の優勝時の白黒写真が掲載してあった。 「藤本のジイさんの胴上げに涙した日」と題されたその文章を今でもよく覚えている。 「それは野生集団といわれた阪神だけのチームカラーだった・・・」 ※ライバルチームの巨人が広岡、藤田、長嶋と東京六大学OBだったのに対し、 阪神はエースの小山、主砲の藤本は高卒、村山は関西大卒だが、吉田は立命館を中退 「そんなチームをまとめあげたのが、藤本の爺さんである。プロ野球では監督一筋の 名伯楽・・・」 「次のバッターは広岡やな、テツ(川上監督)はスクイズをやってきよる。小心な テツのやりそうなことや」 「テツは不器用なヤツやってなあ。あんたらが打撃の神様なんてはやしたてたやろ。 あれは大きな間違いや。わしが巨人の監督の時代に無理してファーストで使ったんや そうでなけりゃ今頃、熊本で芋でも掘っているのがオチやで。」 ※この時の阪神の監督は伊予ダヌキといわれた藤本(定)、戦前、沢村やスタルヒンをたてて巨人の第一期黄金時代を築いた長老監督 阪神という球団は「ダイナマイト打線」という名称からわかるように、昔から景浦、藤村、別当といった大型打者をならべた強打が売り物の球団だった。 だが僕の好きな阪神はやはりこの昭和30年代後半のチームだ。 たしか37年のチームは総ホームラン数で64本、チーム打率2割2分だったはず、 完全な守りのチームだ そのチームが37年、39年とも三原大洋を土壇場でうっちゃって優勝した。 見たことのない 吉田、鎌田、三宅、藤本、ソロムコ、小山、村山、バッキー に憧れ、僕は阪神のファンになった もちろん今でも阪神のファンだ。今のチームだってバランスのとれたいいチームだと 思う、決して巨人やヤクルトに比べ遜色ない。優勝できなかったのは「はずみ」がなかったからだ。 私の本音 巨人がいらないというのなら原さんに阪神にきてほしい ありえない話かもしれないが |
お名前
コメント
めとろん うわー;;;なんかおかしなこと書いたか;;;まちがってましたか?(><) (15/10/22 23:50)
伊藤 博文 可愛いね。めとろんさんは・・・ほんとうに可愛い。 (15/10/22 23:15) めとろん 父親が近鉄フアンだったのでパリーグの試合によく行ってました。西鉄球場とか大阪球場。江本、小林、西本、ひげ辻、福本・・・ (15/10/20 23:41) 伊藤 博文 「巻紙ローテーション」が「エース酷使の三原魔術」に勝ったというわけだ。しかしこのサイトに昭和30年代の野球を知っている人がいるとは嬉しいね。 (15/10/19 23:26) R-66Y この時代のタイガースと言えば、吉田、鎌田実の鉄壁の二遊間。名手鎌田のバックトスは有名ですね。 昔にホエールズファンだった私は、昭和37,39年にタイガースに負けずに大洋が優勝していたら、球団の歴史も劇的に変わっていただろうと少し残念な気がしています。 (15/10/19 22:56) |
タイトル一覧 月別 |