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不信のとき

Author:伊藤 博文 ( Profile )
心に愛がなければ、いかなる言葉も相手の胸に響かない。
    〜聖パウロの言葉より〜

 ■ 2014/08/17 (日) 天皇の決断(Japan the final agony )


1945年、連合軍は沖縄に進攻し日本本土をおびやかしていた。B29の大編隊は日本の空をおおい、都市という都市は焼野原と化し、日本は滅亡の淵にたたされていた。しかも軍部はなお日本決戦をさけびつづけ、一億玉砕の日がせまっていた。この事態を収拾すべく、耐えがたいポツダム宣言を受諾して、終戦にみちびいた人こそ、天皇であった。すみきった英知と、国民に対する深い愛情からくだされた決断であった。
天皇の決断
(Japan the final agony アービン・クックス著、加藤俊平訳)

閣議で和戦きまらず

 八月九日午後二時、全員参加してひらかれた閣議は、和平を求めるか、あるいは戦争を続けるかを、最終的に討議した。阿南陸相は、民族の名誉のために戦いぬけば、かならずなんらかのチャンスがあるど主張した。
 しかし米内海相は、負け惜しみや希望的観測によって、これ以上、危険なカケをすることはいけない、戦争を終らせるため、現実にそくして交渉に入り、日本を全面的破壊から救うべきだと主張した。
 そして米内海相の要求に応じて、各大臣が軍需品、食糧、輸送などの国内情勢について報告したが、その見とおしはきわめて暗いものであった。しかし閣議はまだ、ポツダム宣言を受諾することについて意見の一致をみなかったので、小休止することになった。

 閣議再開後、鈴木首相は、ポツダム宣言を受諾するか、拒否するかの、いずれしかないと言明した。
 最高戦争指導会議は、すでに受諾を原則的にみとめていたのである。
 東郷外相が受諾賛成を力説したあと、阿南陸相は、日本がイタリアの悲劇の二の舞をふまないように、条件をつけるべきだと熱弁をふるった。
 彼は「陸軍はこの点について、自分よりもっと強気であり、戦争に負けたとは思っていない」と警告した。
 さらにやりとりがあったのち、鈴木首相は各閣僚に、それぞれの意見を求めた。
 東郷案に反対したのは、阿南のほか松阪広政法相、安井藤治国務相であった。安井国務相は「国体の護持はえられたにしても、連合国が、天皇を戦犯と決定したらどうするか」というむずかしい質問をした。
 東郷案を支持したのは、米内海相のほか石黒忠篤農商務相、豊田貞治郎軍需相、小日山直登運輸通信相、太田耕造文相、左近司政三国務相であった。
 他の五人の閣僚は、ハッキリと意見を表明しなかった。
 また内閣は、ソ連の調停をうることができなかったため、総辞職すべきかどうかという問題について討議したが、鈴木首相は、激しくこれをしりぞけ、和平こそ第一、最大の考慮すべき問題である、と述べた。
 閣議がはじまってから、すでに六時間以上たっていた。
 鈴木首相は、午後八時三十分、閣議を散会し、天皇の意向をうかがうため皇居にむかった。

九日深夜御前会議

 鈴木首相と東郷外相は午後十一時、天皇に拝謁し、まず東郷がその日の閣議のもようをかんたんに説明したあと、鈴木首相は、ただちに特別御前会議を開催したいむねを言上し、天皇は即座に同意された。
〔特別御前会議の出席者は鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、梅津参謀総長、米内海相、豊田軍令部総長(以上最高戦争指導会議員)、平沼枢府議長、迫水内閣書記官長、池田総合計画局長官、吉積陸軍省軍務局長、保科海軍省軍務局長〕
 これは、もっとも異例なものであった。
 つまり、御前会議でポツダム宣言を取上げた最初のものであり、また意見が一致していない議題について、天皇の前で会議を開くのも初めてであった。
 御前会議は、九日午後十一時五十分に開かれた。
 まず天皇の御要望により、迫水書記官長が、ポツダム宣言の全文を読みあげた。
 ついで鈴木首相は「ポツダム宣言が、天皇の“国法上の地位”を変更する要求を包含していないとの了解のもとに、日本政府は、宜言を受諾する」との政府原案をみずから読みあげた。 〔“国法上の地位”は国家統治の“大権”と、のちに平沼枢府議長の提案で修正された〕
 首相はさらに「一ないし四条件をつけるべきかどうかについての討議で、閣内に意見の分裂がありました。しかし多数が、東郷外相と見解を同じくしていますので、日本政府の回答案の基礎として、東郷案を提出しました」と説明し、天皇が、いろいろの意見を聴取されるようにと言上した。
迫水久常内閣書記官長


 まず東郷外相が、かれの原案を主張し、米内海相が全面的に賛成した。
 阿南陸相と梅津参謀総長は鈴木首相の高飛車な専断的な会議のすすめ方について、心中はげしい怒りを感じていた。かれらは、このような政府原案について、事前に協議をうけていなかったのである。
 不快をかくしながら、かれらは戦争継続、あるいは陸軍の最大限の妥協案として、四条件をつけることを強く主張した。
 ついで平沼枢府議長が、東郷の見解を支持する慎重な発言をおこなったが、“もし”や“しかし”などの用語上の修正が多数つけくわえられていた。
 豊田軍令部総長は、阿南と梅津を強く支持し、勝利はけっして確実ではないが、全面的敗北も避けえられないものでもない、とのべた。討議は二時間にわたったが結論にたっしなかった。

宣言受諾の決断

 十日の午前二時、鈴木首相は、このうえは、天皇の決断をあおぎ、会議は天皇の御意志に従うむねを言上した。
 ポツダム宣言受諾について、四条件をつけさせまいとする政治家や秘書官からの大きな圧力が、実際にあったのである。 高松宮、近衛公、重光葵、松平康昌、高木惣吉、加瀬俊一などで、木戸内府に対策を講じるよう、直接、間接にはたらきかけていた。
 木戸は、天皇をわずらわすことを好まなかったが、九日には四回も天皇に相談している。
 これとはべつに、迫水その他の閣僚は鈴木首相に、問題を多数決できめるよりは、最後の手段として、天皇の決断をあおぐ方向に会議を指導するように要請していた。
 鈴木首相が天皇に、劇的なおねがいを言上すると、天皇は鈴木に着席を命じ、それから静かな口調で、「外務大臣の意見に同意である」と述べられた。
 そして、その理由として、次のようにつけくわえられた。
 「陸海軍の計画は、間違いがおおく、時機を失している。
 本土決戦というが、九十九里浜の防御作業は、予定よりずっと遅れているという。
 新設師団の装備もまだ整っていないという。これで、どうして侵略を撃退できるというのか。
 空襲は激化しており、これ以上、国民を塗炭の苦しみにおとしいれ、文化を破壊し、世界人類の不幸をまねくのは、私の希望に反するものである。
 忠勇なる軍隊の武装解除や、忠誠をつくしたものを戦争犯罪人にすることは、思うだに苦痛だが、国を救うためには、やむをえないだろう。
 いまは忍びがたきを忍ばねばならないときと思う。私は明治天皇の三国干渉のときのお心持も考え、自分のことはどうなってもかまわない。この戦争をやめる決心をしたのである」〔最後の四行は『鈴木貫太郎伝』から追加〕
 鈴木首相は、天皇のお言葉がおわるのをまって「聖断をもって、会議の結論といたします」と述べた。
 最高潮にたっしたこの歴史的な御前会議は、十日午前二時三十分に終了した。
 つづいて閣議がひらかれ、天皇の決断によって決定したポツダム宣言受諾を、午前四時に全会一致で確認した。

涙とともに最後の決断

最後の御前会議は、八月十四日午前十時五十分にはじまった。
 鈴木首相は、東郷・鈴木案に対して、まだ意見の一致をみるにいたらないことを、ハッキリと、天皇に申しあげた。
 そして連合国覚書き受諾に反対するすべての意見を聴取されたうえ、御決断くださるよう言上した。
 梅津、豊田、阿南らはあいついで立ち、連合国にさらに説明を求め、それがえられるまでは戦争を継続することを裁可されるように、と涙をながしながらうったえた。

天皇ふたたび決断をくだす

 天皇は、それまで続けていた沈黙をやぶって、運命的な決断をくだされた。
 天皇は「ほかにべつだんの意見がなければ、私の考えをのべる」と次のようにいわれた。

 反対論の意見はそれぞれよくきいたが、私の考えは、このまえ申したことに変わりはない。
 私は世界の現状と、国内の事情とを十分検討した結果、これ以上、戦争を続けることは、無理だと考える。
 国体問題について、いろいろ疑義があるとのことであるが、私は、この回答文の文意を通じて、先方は相当の好意をもっているものと解釈する。
 先方の態度に一抹の不安があるというのも、一応はもっともだが、私は、そう疑いたくない。
 要は、わが国民全体の信念と、覚悟の問題であると思うから、このさい、先方の申しいれを受諾してよろしいと考える。どうか、みなもそう考えてもらいたい。
 さらに陸海軍の将兵にとって、武装の解除なり、保障占領というようなことは、まことに耐えがたいことで、その心持は私にはよくわかる。
 しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。
 これ以上、戦争を続けては、わが国が全く焦土となり、万民にこれ以上苦悩をなめさせることは、私として実に忍びがたい。祖宗の霊にもお答えできない。
 和平の手段についても、もとより先方のやりかたに、全幅の信頼をおきがたいのは当然であるが、日本が全くなくなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。
 私は、明治大帝が、涙をのんで思いきられた三国干渉当時の御苦衷をしのび、このさい耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、一致協力、将来の回復に立ちむかいたいと思う。
 今日まで戦場にあって陣歿し、あるいは殉職して非命にたおれたもの、またその遺族を思うときは、悲嘆に耐えぬしだいである。
 また戦傷を負い、戦災をこうむり、家業をうしないたるものの生活にいたっては、私のふかく心配するところである。
 このさい、私として、なすべきことがあれば、なんでもいとわない。
 国民に呼びかけることがよければ、私は、いつでもマイクの前にも立つ。
 一般国民には、今まで何も知らせずにいたのだから、突然、この決定をきく場合、動揺もはなはだしかろう。
 陸海軍将兵はさらに動揺も大きいであろう。
 この気持をなだめることは、相当困難なことであろうが、どうか、私の心持を理解して、陸海軍大臣はともに努力し、よくおさまるようにしてもらいたい。
 必要があれば、自分が親しく説きさとしてもかまわない。
 このさい詔書をだす必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。以上は私の考えである。

 〔天皇のお言葉の個所は下村宏(海南)著『終戦秘史』による〕
 地下三〇メートルの深閑とした地下室は感動的な空気につつまれていた。
 迫水は、自分の前の書類に、自分の涙がおちる音をきいた。

涙とともにさとされる

 やや前かがみに話される天皇は、あふれる涙を、片手でしきりにぬぐっておられたが、ついには両手でぬぐわれた。
 とぎれとぎれに、
 「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。……
 万民にこれ以上苦悩をなめさせることは……忍びがたい……」
 といわれたとき、列席者のあいだから忍びやかな、すすり泣きの声がおこった。さらに続けて
 「私として、なすべきことがあれば、なんでもいとわない。
 国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前に立つ」
 といわれると、ひとびとの涙と号泣は、もはやおさえきれないものになった。
 お言葉がおわると、鈴木首相は立ちあがり、天皇の御意思をすみやかに実施するむねを言上するとともに、一度ならず御決断をあおいだことを、おわびした。
 陛下が退席されると、閣僚のあるものは床に膝まずき、恐懼(きょうく)と悲嘆にくれた。
 「それは表現できないほど崇厳で、感動的な場面であった。
 ながい廊下を退出して車にかえり、閣議を再開したとき、我々の誰もが、思いだしては涙にむせんだ」
と東郷は回想している。




人の人生には必ず一度や二度、絶体絶命の瞬間というのがある
それを思う時、自分はいつもこの「聖断」の場面を思い出す




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伊藤 博文 このアービン・クックスの「天皇の決断」は今から35,6年前、僕がまだ高校生だった頃に読んだ本です。この「聖断」のシーンは僕が最も好きなところ。昭和天皇は学者肌で線の細いところはあるが、さすが幼いころから帝王学を授けられてきた英邁な方ですね。 (14/08/22 23:08)
サイコロ 昭和天皇は歴代天皇の中でも名君中の名君であった。 (14/08/18 21:53)
はいむるぶし 素直に涙が出ます。 言葉にならぬこの想いこそ日本人として本当に語り継いでいかねばならない・・・ (14/08/18 00:13)


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