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人生??? |
■ 2004/07/12 (月) 根拠はどこにあるのか |
のっけからわけのわからないタイトルです。申し訳ない。
前回、「死ぬとはどういうことか」と挙げておいてそのあと更新していないわけですが、 「死ぬ」ことは、たとえば、「自分の死」は体験できない。「死にそうになった経験」や「氏に近づいた経験」はできても、死んだ瞬間に私は消えてなくなるので、死ぬ経験はできない。 これは前回の自己レスで確認しました。 で、やや短絡に言えば、自分の死について語られたいかなる言葉も結局憶測の域を出ないので、ある意味ではあたっているとも外れているともいえない。わかっているのは、逆説的に言えば、私は「死ねない」、ないしは正確に言い直せば死ぬまで私は生き続けるが、最後の、「本当に死ぬ瞬間」だけを経験できないということ。つまるところ、私は一見自分の死を、たとえば自殺や遺言のような仕方で支配できるように見えるが、実際には最後の瞬間にそうした目論見は崩壊する。私は、今まで私が見ていた世界と関われなくなり、かつ同時に自分とかかわることも不可能になるからです。 この限りで、私が自分にかかわることとして考えたり体験したことのすべては私にだけ意味を持ち、そして「私の死」と共に消滅することになります。 今、遺言と言う言葉が出ましたが、ここで、これまで考えないでほったらかしにしてきた問題があります。 私は今ここまで、自分の死だけを語ってきましたが、他人の死ということを考えに入れていないのです。 他人が死ぬと言うことは、ものすごく端的に言えば「死んだ当人がいなくなる」ことです。奇妙なことですが、死体はそこにあるのにその死体は死んだ当人そのものではなく、人間はその死体を当人が生きていたということの徴のようなものとして丁重に扱い、時には戦争などに際して憎悪の対象として敵意にさらすこともある。 そのどちらであっても共通する一点は、当人はその物体(肉体であったもの)に宿っていないにもかかわらず、その物体を当人と深くかかわりのあるものとして扱うことがあると言うこと。そしてこの性質はいずれ腐敗し朽ちてしまう遺体にばかりでなく、墓標や、位牌のような特定のものに受け継がれると言うこと。もはやそれがこの世のどこにもいなくなった当人でないにもかかわらず、われわれはそれを当人と必然的な関係があるように当人と結びつけ、丁重にないしは敵意を込めて態度をとるという、奇妙な流儀があるのです。 話が大分ずれてしまっていますが、他者の死を当然自分の身におきることとして体験することはできず、そして自分の死すら「体験できない」一方で、われわれはかつては体験できたが、今は体験できなくなってしまった「死んでしまった人とのかかわり方」を知っている…つまり体験していることになります。 この体験がなぜ可能なのか…過ぎ去ってしまってある現象(ここでは、私と生き生きした関係を持っていた他人)が、なぜか、私にある影響を与える続ける。他人の死は、見たところ、「私の死」と異なって、死ぬと言う限界を超えることができるように見えます。 そうだとしたら、私は「私の死」を越えることができるのか? だが、「私の死」とは上記の様にそうしたかかわりが不可能になることそのものではないでしょうか。 問題はつまり、「私の死」によって限界付けられた私の生が私にだけ意味を持っているという、そもそもの議論の前提にあるように思える。この前提から言えば、「私の死」が自己完結的な意味しか持てないことは当然でもあるからです。 さて、ここでタイトルの問いがやっとどういう問いなのか説明できます。左様、「私の死と生」の意味の根拠をどこに求めるかによって、死ぬと言う限界が乗り越えられるのではないかと思えるのです。 |
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コメント
輪 ところで逆に、仮に誰にも知られず生まれ(母親は出産と同時に死に)、誰にも知られず死んでいく者があったとして、その「死」はどうとらえたらよいのでしょう? 今後も気が向かれましたら、経過報告楽しみにしています。 (04/07/15 11:33)
輪 「死ねない」のに、「経験できない」ことを「わかっている」というのも不思議ですね・・・! (04/07/15 11:31) 豚女 命あるものは必ず死が訪れる。。。。 (04/07/14 19:47) 化石。 ハイデガーのようだ。 (04/07/12 17:11) ひろひろ 凄いね哲学者だね (04/07/12 16:31) |
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