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人生???


 ■ 2004/07/01 (木) 死ぬとはどういうことか


とてもとてもお久しぶりです。

前回書いたのが5月の18日。そして今回が七月の頭。すでに隔月化してしまって久しいのですが。ちょうど頭の中がまとまりかけているので書いてみます。

前回書いたあたりぶの、あーその、就職先のことですが、まあそこで落ち着きそうです。
岩○書店も中央○論も、情けないことに筆記で落ちました。うー。作文がうまく行かなかった…。来年受けられるようだったら受けてみよっと。

それはそれとして、私はいま修士論文というものを書こうとしています。
これが審査に通らないと中退を余儀なくされ、何もかも失ってしまうので結構怖いのですが、現在のところ何とかなりそうです。


で、テーマが若干定まりきっていませんが、恐らく日記のタイトルと同じく「死ぬとはどういうことか」。
今生きている人は現在誰も死んだことがない以上、自分の身におきた経験として語れないわけで、経験したことを元にしてしか語ってはならないのなら哲学どころかどんなお話のテーマにもなりえないのですが、それを何とか語ってみたいというあたりが動機ですね。動機として成り立っているかどうかわかりませんが。

生きているということと死んでいるということは同じ平面では対立していませんが、それでも死ぬ瞬間にある何かが入れ替わると言うか、それまで進行していた何かや可能性として成り立っていたことが全部停止する。生きているということを説明することで死ということを説明できるかもしれない(生きているということは当然「死ぬ」と言うことの必然的なきっかけでもあるわけだから)。
よく考えたら、というか考えることの中でのみ、「観念としての死ぬと言うこと」は成り立つ。こう考えていくと、結局人間が考えられる限りでの死はあくまで考えた限りでのしでしかないわけで…というよくあるアホな無限後退の循環を何とかしたい。そういうことを目標に考えてみたい。そんなあたりです。

(あとで更新します。ちょっと時間が…)


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ぺけぽむ ご返事、どうもありがとうございます。>皆様。さしあたり、殺意のひとつは抱いたこともあるし、ひょっとすれば自殺していたかもしれないと言うこともあるし、近しい人の死と言うものの理解できなさを抱いたことも、一応あるのです。とはいっても死ぬということは体験でもないし(体験した瞬間に死んでしまうので)と言って観念で捕らえられた死は詰まるとところ他人の死の<体験>を自分の将来に投影していることになる。だが、「自分がいなくなる」ことと「他人がいなくなる」ことは全く対照的ではない。以前、人生の意味を確保する術というのを自分で論理化したことがあるのですが、そいつをこういう非対照性に照らして厳密にするためのことです。死に意味があるのか、そして死に意味があるのかどうかを明らかにすることで生に意味をもたらせるかもしれない。その、「生に意味を」の手前の問題として、「死の意味」を考えたい。密に展開してして言えば、そういうことです。 (04/07/04 11:52)
lynn 本気で死にたいと思うこと、じゃなければ死にかけたこと、あるいはごく近しい人の死。どれも「観念としての死」を超えているのでは。これらの「経験」がないとしたら、なぜ「死」にこだわって議論したいのでしょう。頑張ってください。 (04/07/02 11:38)
4と5 お元気でしたか。論文、うまくいかれるといいですね。 (04/07/01 22:01)
豚女 人も常に生と死の狭間で生きてると思う。 (04/07/01 19:04)
(´・ω・`)しょぼんぬ 論文作成お疲れ様です。何とか、形になりますように。 (04/07/01 15:06)


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