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ヒモと呼ばないで9年ぶりに帰ってきました。誰か助けて。 |
■ 2003/12/02 (火) 色 |
午後から丘陵に散策に出る。
雨で日が開いたのと、面接疲れのためか、心身共にペースが上がらない。 山にたどり着くまで、いつもより2分余計にかかってしまう。 しかし、山に着くとそんなことはどうでもよくなった。 ここ最近で最高の八国山が出迎えてくれたからだ。 昨日までの雨で足下は多少ぬかるむが、その上に積もった乾いた新しい落ち葉が、まるで絨毯のように山道を覆っている。 赤と黄色の葉のフィルターが空の青と日光の白を透過するように所々遮り、肌に優しい風は、頭上の葉と小枝だけを何故か強く揺らし、大好物の(疑似)潮騒を途切れなく奏でてくれる。 …自分で書いてて歯が浮いた。 でも、本当だから仕方がない。 そして、ここで目を引くのはなんと言っても「黄色」だ。 この山中で銀杏は殆ど見かけないが、他にも黄色に色づく葉を持つ木は当然存在する(名前は知らんが)。 足下の絨毯にあっても、水の上に浮いていても、木にしがみついていても、またそれが不規則に揺れながら頭上から落ちてきても「黄色」は目を引く。 赤は、ある程度一箇所に集まっているか、大木の紅葉の場合にはハッとするほど美しいが、そうでなければここでの圧倒的大多数の「茶色」の「亜流」のような存在だ。 しかし、一般的にそうかと言えば疑問もある。 例えば日本を代表する紅葉の景勝地であり、今や世界中から賞賛される京都においての主役は間違いなく「赤」だ。 「赤」といえば、その「彩度」こそ、その持ち味だと思う。 文字通り「燃えるような」と形容される、生命力を感じさせる色。 一方、「黄色」は「明度」が、その特長じゃないだろうか。 出所する旦那を待ちわび、風になびくハンカチの、あのインパクトだ。 そして、あくまでも八国山の茶色主体の紅葉の場合、 「赤」はどんなに美しくても、それがその魅力を発揮するには、逆に枯れ葉の一般的な色である「茶色」を「赤の亜流」とする程の「量」がないと、黄色のインパクトに勝てないような気がする。 まるで今の俺は、自然保護の言い訳のように残る秋の里山で圧倒的大多数の「茶色」にもなれず、人を惹きつける「黄色」の魅力もない、「赤い落ち葉」みたいなものなのかも。 それなら自分のような人を募って、「赤」を活かせる「京都」を作れば、俺も少しは生きやすくなる……わけないか。 「生命力を感じさせる/燃えるような」性を持つはずの「赤」の自分に、そもそも自信がないんだから。 「都」なんか作れるわけないだろ。 っていうか、千年の都に対して失礼だ。 でも「茶色の亜流」ってホントに辛いな。 だからって、そんな輩が勘違いなことすれば、また恥をかくだけだ。 もう散々恥はかいてきた。 もう沢山だ。 八国山の紅葉に例えるなら、俺は貧相な赤い落ち葉…。 …バカみたいだ。 自分で書いてて、思わず赤面する。 でも、それでもまだ。 ごまかしても、本心は隠せない。 せめてこうして晒すことで、濡れ落ち葉は免れたい。 顔を赤くする熱での乾燥で、しばらくは腐臭から自由でいさせてくれ。 それでも、まだもう少しだけ「赤い」自分でいたいんだ。 |
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