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無色の妄想日記

タイトルを変更しました。

現在、福島県郡山市に仮寓させていただいている。
ありがたいことです。

旅をしている時の状況が時に思い出される。泊まる当てもなく、地図を片手にひたすら歩いた。雨の中、強風の中、雪降る中、そして、暴風雪の中。ひたすら歩いた。歩いている時には不思議に恐怖感や切迫感は無かった。何とかなるという気持ちですね。

今、雨、露、雪、風を凌げる部屋を提供していただいている。このことがどれほど嬉しい事か。実感している。

残された時間がいくらほどあるかは判らないが、残された時間を、自身の身魂を磨くために使おうと思う。スピリチュウアルを学んできているのだから、自身が信じる道を進む。    ただ・・・それだけ。

 ■ 2014/08/02 (土) 言葉と感性と民族性と土地


河合隼雄著「日本人の心を解く」より引用

自我、自己、自然

人間と宇宙の関係を心理学的に調べてみると、自我と自己の関係についてのユングの理解が重要になる。
そこで、東アジアにおける自己の概念を明らかにする助けとして、ユングの立場に基づいて論じてみたい。
「概念」といったものの、自己とは実際のところ決して概念化されえないものである。
ユングは自我を意識の中心として、自己を意識と無意識の両方の領域を含むところの中心であると定義した。また、ユングは自己というものは直接に知ることは出来ないけれども、象徴やイメージを通じてのみ意識に上ってくることができるとした。したがって、自己は誰にとっても同じように存在しているけれども、それぞれの人の意識のユニークな内容に沿って、異なった現れ方をするのである。
日本語でego、self、natureに当たる言葉はそれぞれ「自我」「自己」「自然」である。

どの言葉にも「自」という漢字が含まれるのがわかる。
「自」は「みずから」とか「おのずから」とも読むことが出来て、逆説的なことに、それぞれ「自発的に、自分の自由意志から」と「自然発生的に、ひとりでに」ということを意味する。それは、西洋人には矛盾することのように思われるかもしれないけれども、日本人にとってはそうではない。

自我意識に立場からすると、それらは相容れないものであるけれども、「じねん」の立場からするとそうではない、といったほうがよいかもしれない。
「自」の持つ二重の意味が、自我、自己、自然についての日本人の理解に含まれるのである。したがって、夢は自我、自己、自然に属しているので、日本人がもともと理解している意味での「じねん」の流れにある。

結論付けると、宇宙におけるすべてのものは、それがあるがままに流れ、あるものが別のものに象徴しているとする必要などない。それらは単にそこに存在するのである。・・・・略。


庄司和晃著「認識の三段階連関理論」より引用

日本の「雪月花」の語るもの

「雪月花」とか「花鳥風月」とかは、一般に、日本人の心情を示すものとして扱われている。ときには詠嘆的なものとしてさげすまれることもある。普通、消極的なものとみなされているのだ。一面の真をつくものであろう。が、日本人の思想表明という積極的な面で見直されていい事柄ではなかろうか。いわば表象的思想といえるものがそこにはあるからだ。

これに類するものには、ほかに、「山川草木」「道」「虫(ムシ)」「地水火風空」「山水」、などがある。貫通しているのは「表象の論理」である。論理学上のカテゴリーという点から見れば、それらは、前カテゴリーとも呼ぶべき一群だ。カテゴリーを、仮に、抽象的カテゴリーと具象的カテゴリーとに分けるとすれば、後者に属するものになる。
これらの一群の持つ「表象の論理」は、日本人の思考の特性を解き明かすめどになるものではなかろうか。前代における知識人の思想作りや論理作りの積極消極両面を浮上させることにもなろう。大衆側はどうであったか。虫送り行事の「ムシ」はただのむしではなかった筈だ。盆花の「ハナ」もまた然り。他面から言うと、コトワザの豊富な国でもあるようだ。

こうした点から見ただけでも、日本という国は表象の研究にはことのほか適した風土だといってよいのではなかろうか。なにしろ、風月花のごとく、こんなに精神的に「雪」「月」「花」を高めた国民はいないのではなかろうか、と思うからである。

引用終わり。

日本人・・・いや、倭(大和)の民の感性を言い表しているのではないでしょうか。
現在の「お金」中心の社会。「命よりお金」の感覚とは正反対の感性です。人も自然の一部であり、このまま行くと、自然に淘汰されるだけではなかろうかと危惧します(このことは、「妄想 時の枝道 完」にメモした。)

地球先住民族として、なぜに”倭(大和)の民”が存在しているのかを、地球人類の一員として、世界中の心ある民が考え、感じ、判断するときが来ているのではなかろうか。現在、画一化への道を暴走しているように感じて仕方がない。私は「英語教育」を否定するものではない。が、教育だけではなく、世界秩序なる言葉を連呼しながら、画一的な社会作りに邁進しているのではないか・・・と、思えて仕方がない。

人は違って当たり前、民族も違って当たり前です。それぞれの歴史が国民性を創り上げているのです。それぞれの民族が置かれた環境、土地柄などがその民族の言葉、習慣、習性を形創っているのです。だからこそ、欧米のコピーではなく、それぞれの民族が和合できる環境を創り、お互いの違いを認め合い、その上で和合できる国際社会、ひいては地球社会を目指すべきではないかとも思う。
安倍さんも、“国家百年の計”を口にされるのならば、”地球人類の千年の計”をお考えいただきたいものです。それが、この時期に日本国の総理大臣に登場した責務ではないでしょうか。かの組織は、家畜社会の計を千年の計で推し進めているのですからね。


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