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無色の妄想日記

タイトルを変更しました。

現在、福島県郡山市に仮寓させていただいている。
ありがたいことです。

旅をしている時の状況が時に思い出される。泊まる当てもなく、地図を片手にひたすら歩いた。雨の中、強風の中、雪降る中、そして、暴風雪の中。ひたすら歩いた。歩いている時には不思議に恐怖感や切迫感は無かった。何とかなるという気持ちですね。

今、雨、露、雪、風を凌げる部屋を提供していただいている。このことがどれほど嬉しい事か。実感している。

残された時間がいくらほどあるかは判らないが、残された時間を、自身の身魂を磨くために使おうと思う。スピリチュウアルを学んできているのだから、自身が信じる道を進む。    ただ・・・それだけ。

 ■ 2014/06/15 (日) 言葉と感性と民族性と土地


河合隼雄著「日本人の心を解く」より引用

自然の概念
人間と宇宙の関係を考えるに際しては、我々にとって自然がどのような意味をもつのかを問わなければならない。
ユングは人間のことを「自然に反する作業」であるとしている。この逆説的な状態のために事態は非常に複雑なものになる。特に日本は西洋とは自然の概念がまったく異なるため、より複雑である。
厳密に言うと、西洋文明との接触以前には日本人は自然の概念というものを持っていなかったのである。そこには、生と死、現実と空想、自己と他者の間のはっきりとした区別はない。同様のことは人と自然の関係についても当てはまる。
西洋の歴史において、自然は文化や文明と対立する概念であって、常に人間によって客観化されてきた。

Natureという言葉は日本語で「自然」として翻訳された。これ以前には日本語に自然という概念がなかった。日本人が「自然」について語るときには、「山川草木」などという言い方をしたのであって、それは文字通りには「山」「川」「草」「木」を意味しているのである。柳父章は日本語の「自然」と”Nature”な違いについて指摘している。今の日本人の多くはこの二つを混同し、はなはだしい誤解をきひ起こしてしまっている。
西洋との出会い以前に、「自然」という言葉がどのように用いられていたかを見てみよう。
この言葉は中国に由来するもので、最初に文献に現れるのは老荘学派の老子と荘子においてである。
 自然は「老子道徳経」の有名な第二十五章の最後の行に「道法自然」として出てくる。これを翻訳するための多くの試みがなされていて、以下はそのいくつかの例である。

「道(タオ)は自分自身の性質に従う」
「タオの基準は、自発的なことである」
「タオの法は自分自身の存在である」
「タオは自分自身の道に往く」
「タオはその本性からして自分自身である。自分の模範にできるものは何もない」

「自然」という用語を翻訳する難しさがさっそく現れている。
まず最初の重要な点は、自然が”Nature”と同じではないことである。実際のところ「自然」は名詞ですらなく、前近代の日本の文献においては、もっぱら副詞や形容詞として使われていた。「自然」とは全てが自発的に流れる状態を表現していたといえよう。
常に変化する流れのようなものであって、そこにはすべて−空、大地、そして人−が含まれている。それは連続するプロセスのようなものであって、決して時空間的に把握されえないし、厳密に言うと名づけられない。
この「自然」の状態は、日本人によって直観的に捉えられ、後に”Nature”を翻訳するために用いられた「しぜん」ではなくて、もともとは「じねん」と読まれた。二つの読み方の意味は「しぜん」が西洋の概念に適用された明治時代まで同じであった。「しぜん」はもともとの意味を決して失わず、その結果として”Nature”から「じねん」を区別できないことが混乱の原因となってきた。
この二つの用語にそれでも共通している点は、どちらもが人工的なことの反対の意味していることころである。自然が好きと日本人がいう時には、この二つの入り混じったものを指している。
「じねん」は”Nature”よりも包括的で、後者を含む立場を表しているといえるかもしれない。引用終わり

うっきぺであより引用

日本語では自然という語は平安時代にさかのぼる。平安末期の辞書である『名義抄』に「自然ヲノヅカラ」とあるのがもっとも古いようである。より古くは、中国のいわゆる老荘思想では無為自然という語があるが、老子などには無為はあっても自然はない。いずれにせよ、この語は意図せずに、意識的でなく、と言うような意味である。ただし老荘思想では無為自然を重視し、それに対立するものとして人為的なものを否定する。そこから現在の意味の「自然」を尊いものと見る観点が生まれたと考えられる。彼らは往々にして山間や森林に隠れ住み、また山や川を愛でた。いわゆる水墨画、山水画などもこの流れにある。
人の手の触れない地形や環境を指す言葉としての自然は、開国後に「nature」等の外国語を訳する際にできた言葉だと思われ、そのような使われ方は明治中期以降のことである[16]。日本語としては天然(てんねん)がほぼ同義であるが、使われ方はやや異なる。現在では単に天然と言えば天然ボケを指すこともある。なお、自然(じねん)と読んだ場合、むしろあり得ないものが勝手に生まれるのを指す。
・・・・

「じねん」は自然の呉音読みであり、「しぜん」と読んだときとは違った意味を持つようになる。
自然(じねん)とは、万物が現在あるがままに存在しているものであり、因果によって生じたのではないとする無因論のこと。仏教の因果論を否定し、仏教から見た外道の思想のひとつである[17]。
また外からの影響なしに本来的に持っている性質から一定の状態が生じること(自然法爾)という意味や、「偶然」「たまたま」といった意味も持つ。

岩波書店より引用

河合隼雄(かわい はやお 文化庁長官(臨床心理学))

今西錦司の学問の意義を端的に示す言葉として,自然(ジネン)科学,というのを思いついた. 英語のnatureを訳すときに「自然」という語を用いたため,多くの混乱が生じることになった事実は,柳父章の周到な分析によって周知のこととなっている(1). 東洋には,人間が客観的な対象として見なすnatureなどという概念はもともとなかった.それに類することを表現したいときは,「山川草木」のように個々の名を並べて全体を示すような方法をとっていた. これに対して「自然」は中国から由来する語として古くからあるが,福永光司は『老子』の言葉を引用して,自然という語は「『オノズカラシカル』すなわち本来的にそうであるごとくそうであるもの」を意味すると言う(2).従って,天地万物も人間も同等に自生自死するという考えにつながり,「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的には一つであること」を認める態度につながるのである.この場合の「自然」は,日本では「ジネン」と発音されていた.

 西洋においてはキリスト教による人間観,世界観によって,人間とその他の創造物の間に画然とした差があり,他と自分とを明確に区別し,他を客観的対象とし得るような自我が成立することになった.その自我が「自然【ネーチヤー】」を対象として研究する“natural science”が発達したが,日本ではそれを取り入れるとき,「自然」の言葉を用い,「シゼン」と発音した. ところで,今西錦司は「自然科学」は,「ジネンの学」としても成立することを明らかにしたと考えてはどうだろう.西洋に起こった科学は,自然に向かうときも「科学」に足場を置きすぎて,シゼン(nature)を研究しようとするが,今西は自然(ジネン)に足場を置き,それを研究しようとした,と考えてみてはどうだろう. 今西が自分の研究法の出発点として,バッタを殺してピンでとめるのではなく,「自然の中に生きている」姿を研究しようとしたと述べている(3).前者の方法は「科学」から出発しようとしているが,後者の態度には,「自然(ジネン)」からの出発が認められる. このように考えると,彼の進化論における「変るべくして変る」の言葉もよく理解できるのである.今西は,自然(ジネン)の現象について語っているのだ.存在のオノズカラナル変化の力に,進化の姿を見ようとしている,と考えられる.

 現在は,科学がテクノロジーと結びつき,人間が自然を思うままに操作し,快適な生活をするようになった反面,それによって自己の存在を危くさせられるようになっている.そこで自然を操作の対象として見るのではなく,「自然のなかに生きる」態度で自然に接しようとする考えが,政策においても主張されるようになった.このようなときに今西錦司の「自然(ジネン)の学」は,大きい意味をもつものと期待されるのである.
引用終わり

さて、人類のエゴによる環境破壊によるわれよし環境において、人類以外の生物に対して、「我よし自然」を持ち出す学者が多いのではないか!?そのような学者が口にする「自然」は何を指すのか!?「自然」の意味を履き違えている(要するに、人類が快適に過ごすことができる環境)のではないか!?権威に弱い日本人は、そうだ!そうだ!といっているようだが・・・地球の管理者である人類が破壊者になっている現状では、自然のしっぺ返しが来ても仕方がない状況だよね。
自然と一体化の感覚があるからこそ、虫の鳴き声、川のせせらぎの音、風の音などを雑音と感じなく、受け入れられる感性が大和(倭)の民に備わっている。今のときを過ごしている感性豊かな人々が、その感性に蓋をし、画一的な感性を刷り込まれようとしている。今踏み止まらなくて、いつ踏み止まるのか!?
河合先生の文章を引用させてもらっているが、人は違って当たり前、民族も違って当たり前です。無理に同じにする必要などない。「自然」の多様性を見ればわかるように、互いの違いを認め合い、その上で共生出来る世界のほうが、刺激があり、進化の幅も広がるのではないか!?


お名前   コメント

はいむるぶし 何を思われても一向に構いませんが、そのコメントを一字一句そのままお返しいたします。 (14/06/15 21:54)
やまと はいむるぶし さん あなたは意図的に議論を持ちかけ、あなたの意図した方向に誘導しようとしていますね。今後、ご縁了願います。 (14/06/15 21:32)
はいむるぶし 何か矛盾してません?やまとさんのその思考では自然破壊も受け入れるという事?世界のどの様な行為も受け入れるという事ですか?それにしてはこの文章からはある種のベクトルを感じ取れるのですが・・・ (14/06/15 21:12)
やまと はいむるぶし さん 放浪者ことやまとです。私は「善.・悪」の立場では考えていません。其々が目指す世界が異なるだけです。人は違って当たり前。霊性も異なるのです。よって、目指す世界も異なるが故に、その道程も異なる。画一的にしようとするから、摩擦、軋轢が起きるのです。コメントありがとうございます。 (14/06/15 21:04)
はいむるぶし 私の様な性悪説が前提の思考だと楽ですよ!そもそも人間などそんな器用にできていないという前提ですから大抵の事は受け入れれますから・・・日本人は権威に弱い!良いですね!人間なんて権威に弱いものですよ!日本人に限らず全世界の人々は権威に弱いです。逆に権威に強い国民性の国が有ったら教えてほしいぐらいですが!^^ (14/06/15 19:24)
はいむるぶし 自然と一体化・・・かなり難しい命題です。性善説と言う立場と性悪説と言う立場で考える視点で大きく異なります。放浪者さんは私が感じるところ性善説が前提の思考だとお見受けします。この前提だと現在の人間と自然の関係性は良好には見えないでしょうし、それと同時に何らかの改善策を思考し伝えるなどの行為を模索し続けるのでしょう。 (14/06/15 19:16)


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