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人生??? |
■ 2004/07/19 (月) 意味について(二) |
目が回り始めてすでに一週間、まだ回ってます。目下の問題を考えている間はずっと回ってそうな予感が…。
さて、前回の宿題ということで、「人生の意味」が道具の「意味」と同じような意味であるのかどうかを考えたいのですが、そのヒントになる(かもしれない)考察をすこし進めます。 道具の意味というのはまさに有用性のことです。で、われわれが意味、といって名指すもののほとんどはこうした有用性に根ざしている。たとえば、一日を24時間と区切ってそれにあわせて行動を定める時間の切り方や、ある目的のために行動を起こす最適のタイミングを図りながら時間を気にすることなど、手に取れる道具以外にも、まさに時間や「出来事」に関してもこういう日常性は浸透しています。むしろ、こういう意味がないことには人間は何も行動に移せないと言ったほうがいいかもしれません。 これはこれで十分検討してもいい問題ですが、あまりこういう道具の観念をこねくり回していても仕方ない。あとで必要が出てきたら考えることにして、7月12日に検討した、死ぬと言う限界を超える「かかわり」の「意味」がこうした道具性としての意味とどうかかわるか、に話をすすめます。 われわれはすでに死んでしまった人を気遣うことができますが、もちろん、その気遣いのうちにもいろいろあって、たとえば先祖をよく祭っておけば子孫が繁栄するという手のものや権威者の葬式で棺桶を先頭にたって担ぐことなど、よくよく考えてみると死んだ人に向かってではなくて生きている人に向かっての気遣いといえるものも多い。ですが、一方で、こう考えることもできる。生きている側の人間は死者に関する記憶を持っている。その記憶は、記憶である以上生きている人間の理解に服しており、ある意味で潤色や歪曲の対象になる。そもそも記憶自体がそうした意味なしには成り立たない。成り立たないが、それは結局どこまで言っても死者に関する「生者の想い」であって、それは本当には死者に触れることはない。死者はわれわれにある記憶を残し、または忘却にさらされる。生きている者の都合に何ほどか支配されながら、だが、死者そのものはもはや生きておらず、いま取り残された私の目の前に現れず私に直接の力を何も振るわないのにもかからずある態度をとれ、と呼びかける。他の人に死に関する私の気遣いの内には、だから、生きている人に向かうものと、そして死者に向かうものの双方がある。 むしろ、死者を気遣わないのであれば、私は自分の死を気遣えないかもしれないと思える。死とは、生きている者が気遣えるものに対する不在と言う出来事に思えますが、ある意味で、死という現象は私と死者の間で共有されていると言えなくもない。私にとっての死は、意味も、意味からの逃避も裏切る(であろう)出来事であり、究極の不在である、ということができるかもしれない。一方で、他者の死もまたそういう意味付けに対して一見受動的であるように見えながら、その死者の不在と言う一点に着目する限りその意味付けは剥奪され、不在は不在のままにとどまりつつ私にある態度を強制される。 そうしたどうしようもない手の届かなさにもかかわらず、私は、そこに何らかの意味を求めているわけです。奇妙なことに思えますが、おそらく揺るぎのない意味というものを考えるとすれば、生きている者にとって不在であるものこそがそれを示すのではないかと思えるのです。 死の意味、というのは私のものであれ他者のものであれ、私が意識すると意識せざるとかかわらずしている意味付けをはみ出しているわけで、するとこれまで前提してきた「意味」の観念を廃棄して別様な「意味」を考えなければならない。話を明確にするために、前者を「意味1」と名づけ、後者を意味2と言っておきましょう。 意味1のほうからすれば、これを何とか拡張することで意味2が担っているような出来事を取り込めないかと考えて見ることもできるかもしれない。意味2の定義は曖昧模糊としていますが、前回の最後で予告して今回やらなかった「意味1の定義を最大限に拡大したら、そこに人生の意味は含まれているのか」を考えることで、意味2が析出できるかもしれない。 というか、何とか析出できなかったら、私が考えたことはすべて撤回するしかなくなってしまうので、この一点には特に慎重に取り組むことにします。長くなるだろうなあ…。 |
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