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独身中年・最底辺の日々 |
■ 2014/02/22 (土) 本能寺の変に対する私見 |
本能寺の変での信長の横死については諸説あるが・・・。
秀吉や家康の陰謀、時の将軍の陰謀など・・・。 だがやはり、私はオーソドックスに光秀だったと思う。 母親を波多野氏に人質に出した際、信長が波多野氏を殺した報復に光秀の母親を殺された・・・という一件が一番の理由だったのでは。 元々、信長と光秀は性格的には合わなかっただろうし、生真面目な光秀は信長に媚びる柔軟性もなく互いの確執は広がっていく一方だったのでしょう。 しかし私は、光秀はやはり愚かだったと思います。 信長を討った後の明確なビジョンもなく、いわゆる三日天下に終わった・・・。 まさに衝動的犯行としか言いようがない。 一時的にでも信長に仕えたからこそ得られた地位であって、他の大名ではそれほどの器量はなかったと思う。 でも、信長に謀反を企てるなど、そこまで大それた野望を本当に一個人で抱いたのであろうか・・・という疑問もたしかにある。 考えれば考えるほどキリがない。光秀の南光坊天海説は無論トンデモ話だと思っている。 秀吉の陰謀もよく言われるが、私は無いと思っている。 秀吉は信長によって見出されて出世させられた。おそらく信長でなければ一介の得体の知れない水呑み百姓であるサルを自軍の中国方面軍司令官にまで引き上げることはできなかっただろう。 秀吉は信長に対して畏敬の念はあったであろうが、よもや謀反を企てて自分が取って代わろうなどという野望がその時点であったとは思えない。 信長を尊敬し、信長に憧れてはいただろうが、自身が天下人になるとは思っていなかっただろう。あくまで信長の元での出世の一念だったと思う。 信長は、あの時点で晩節を見せることなく死んでいったからこそ今なお絶大な人気があるのだろう。 秀吉のように晩節を汚した最期では、今のような人気は無かっただろう。 個人的には家康も晩節は非常に汚いものだっと思う。 というか私は、基本的に家康が嫌いなのだ。 何というか、腹黒いというか姑息というか・・・戦国武将としてのダイナミックさが感じられない。陰険な腹黒タヌキでしかない。 家康ファンの方、スミマセン。 |
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コメント
やさぐれ ぴょんさん、詳細な分析ありがとうございます。秀吉は光秀に対して同情的な言葉も残しているようですし、信長がいつか謀反を起こされるのではという懸念は持っていたかもしれませんね。光秀の三日天下は、まさにその読み違いが招いた大誤算でしたね。 (14/02/26 12:03)
やさぐれ らくださん、私もそう思います。どちらにしろ計画性は無く、突発的な謀反だったような気がします。 (14/02/26 11:59) ぴょん 秀吉も地下人かもしれませんが、土豪の下の有力自作農かと思います。そうでなければ、弟の秀長という政治経済に勝れた手腕を持った人物が生まれるわけありません。それなりに教養教育を受けられる環境だったとは思います。秀吉も多分役目が終われば領地取上げは信長にとって規定路線だったような気がします。敏い秀吉なら謀反か小姓・家臣にいきなり信長がバッサリ殺される可能性も頭の中にあったと思います。 (14/02/23 00:12) ぴょん 多分、光秀は信長が余りに思い上がって狂ってしまった。大きな権限を持つ自分も危ういと思ったのかもしれません。それは多分信長家臣全員が共有していたのではないでしょうか?だから近畿の与力武将や親族武将、恩を売った武将は自分に全員味方すると勘違いしたのでしょう。信長はダイナミックだが部下にとっては全く安心ならないし、将来的には信長親族だけが日本を支配する可能性はかなりあったと思います。光秀は頭も切れるの極秘で謀反を考えていましたが、近畿の与力が力を貸すものと先読みに失敗したのではないでしょうか? (14/02/22 23:56) ぴょん 母親もしくは叔母を人質に出したと言うの後世の俗説です。これはその当時の状況を今から解析しても何で人質出すのか分りません。波多野氏はそのままでも滅んでいたわけで人質を出す意味がないのは間違いないかと思います。 (14/02/22 23:41) らくだ 光秀は天皇までを安土城に住まわせようとした信長に逆ギレしたのか 以外と男の更年期障害で正気を失ったのか、光秀本人は決して天下を狙ったんじゃないんでしょうね。 (14/02/22 20:46) |
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