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 ■ 2018/02/07 (水) 善意というもの @


また久しぶりに日記を書いてみた。

それと言うのも私の身近な所である出来事がどうしても私自身が納得のできない事柄が有ったためだ。

それは「善意」と言うものにどうしても納得がいかないことだ。

ちなみにこの「善意」という代物はいったいどういった事柄を指す行為なのだろうか?

私はこの「善意」というものにどうしても懐疑的に映ってしまうのだ。

私は思う・・・

世の中のあらゆる善意はとどのつまり、「自分自身への自己満足」に過ぎないと思っている。

本来、善意という代物は「利他主義」が大前提と思うがしかし果たして大方の善意はいかがだろうか?

本当に利他主義を全うしているだろうか?

世に存在している多くのボランティア活動、助け合い、そのほか一見してはさも慈善事業と見受けれるもの、「正しさ」「公正」などを標榜している多くの活動。

果たしてそれは本当の意味で世の為になり、救いの手となっているのだろうか?

そもそも正しいことっていったい何なのだろうか?

人の持つ社会、生活、コミュニティや道徳などは国によっても千差万別で地域によっても目指す方向が違う場合もある、ある地域、コミュニティ、もっと言うなら個人でさえ正しさのベクトルは同じではない。

一方では正しくてもある一方ではその正しさはその人にとっては迷惑千万ということも多々ある。

正しさや公正を一方向に特定する事など出来はしない。

特にそれが「集団」に対して推し量ることはある意味「ファシズム」という政治的手法である。

民主主義ではこれに対し「多数決」という手法を取り入れるのだがこれはこの答えに対して決着を着けるための手法でしかない、であるから正しさや公正は逆を言えば答えがないと言っていることに等しいのである。

それが前提にあるにも関わらず人は盲目的にある一つの「善」になんの懐疑心も持たず行動を起こしたりする。

そしてその原動力は私が思うに確実に自分への「美徳」へと繋がっているように思う。

これは果たして善なる行為と本当に言えるのだろうか?

私にはこれほど虫唾が湧く行為はないように思う。


ある出来事があった・・・


その出来事は全国ネットにも取り上げられ、割とニュースの一端を飾った。

それはあるご夫婦の子供がある学校のクラブ活動の場で命を落とし、その責任追及を求めた夫婦が学校側を相手取り、長年の闘争の末勝利したというありがちな話だ。

私はひょんなことからこのご夫婦と接点を持ち、この闘争に勝利するために築いた団体とも接点を持つに至った。

私はあらゆる事柄に対して一つの方向性には肩入れはしない、いつも客観性を重んじることに重視しているためだ。

当然のことではあるがこの団体、もちろんこのご夫婦も間違いなく「聖戦」と迷いもなく思っているし正義の御旗を全面的に振っている。

そして当然のことながらこの行動に対して問題提起されている学校側が悪の権化とされているが果たして本当にどうだろうか?

学校側には一分の正義もないのであろうか?

結局はそれが個人、団体では判断ができないが故「裁判」となるのであろうが・・・

私の個人的な意見ではあるが・・・

物事には「決着の着けていいことと悪いことが有る」と思っている。

大人としての倫理観として、私利私欲に対してと、公共に対しての倫理観は必ず併せ持つべき事柄と思っている。

特に、大人は「公共」というものに対して必要以上の重大性を意識するべきと思っている。

「私」と言うものを重大に思う事は「子供」という烙印を押されてしまうことが社会であり、社会性とは「公共」を指していると言っても過言ではない。

この価値観に照らし合わせてみると、私はこのご夫婦及びこの団体のとっている行動はどうしても「私利私欲」にしか見えず、公共を著しく損なわしていると感じずにはいられないのだ。

もちろん今のその他の報道や出来事の中にも公共を著しく貶めている事柄は実に多い。

私が取り上げたこの事柄はその一部に過ぎないがあまりに身近に起こった出来事と、そのことに対して盲目的になっている人々を目の当たりにし、憤りを感じ書いてみた。

詳細はまた後日書くことにする。

それまでまた・・・・







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