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 ■ 2010/08/01 (日) ダンディズム


中国の戦国時代、儀の国に張儀という雄弁家がいた。
自らの雄弁術だけを頼りに各国を歩き回り、彼の能力を認めてくれた王のもとで
征服戦争の指揮官を努め、功をあげればそれに応じた報酬を受ける。
もっと重用する王がいれば、ためらわず彼はそちらに乗り換える。
張儀は秦の恵文王のもとで名声を築いたのだが、
あるとき恵文王は楚の一部を秦の一部と交換することを考えた。
そのとき楚の懐王はこう答えた。
「否。しかし張儀となら交換してもよい」

この文章は、昭和59年11月の週刊ベースボールの男の美学という
コラムの一節である。それは次のように続いている

近藤貞雄は現代によみがえった張儀である。
自らは動かずとも、向こうから彼を迎えに来る。
「人間的な信用、技術的な信用、これがあるから、大洋は僕を呼んでくれたんだ
 と思いますよ、ええ」
西武の広岡とよく比較され、実際、また同じような道を歩いてきた。
が、近藤には求道者のようなところがない。あくまでもプラグマチックである。
「面白い野球をやれて、しかも強いチームをつくりたい。そうすればお客さんも
 入るし、球団はもうかる。これが一番いいんですよ。」・・・(中略)

近藤貞雄さんというのは、自分が大学の頃、プロ野球の大洋の監督をしていた人だ。
スーパーカートリオやアメフト野球等の新機軸のアイディア野球を打ち出した監督で
弱小球団だった大洋を率いてセ・リーグをかき回した。
大洋のファンだった僕は、週末はいつも横浜スタジアムに通っていた。
(もっともエース遠藤をたてて巨人に勝ち越した後は、バースや岡田のいた阪神
 の猛打に弱体投手陣が粉砕されるというのが、当時のパターンだったのだが・・・)

近藤さんは5年前、80歳で他界した。
当時つきあっていて、今は神戸に住んでいる大学の同級生だった彼女からは
昨年、上の子供が成人式を迎えたというメールをもらった。

横浜にいくといつもこの頃を懐かしく思い出す。


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