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不信のとき

Author:伊藤 博文 ( Profile )
心に愛がなければ、いかなる言葉も相手の胸に響かない。
    〜聖パウロの言葉より〜

 ■ 2015/06/08 (月) アリューシャンの零戦


アクタン・ゼロ(英: Akutan Zero、あるいは古賀のゼロ〈Koga's Zero〉、アリューシャン・ゼロ〈Aleutian Zero〉とも呼ばれる)は、第二次世界大戦中にアラスカ準州アリューシャン列島のアクタン島に不時着した三菱零式艦上戦闘機二一型(製造番号4593)のアメリカ軍における呼称。1942年7月にほとんど無傷のままアメリカ軍に回収され、大戦中アメリカ軍が鹵獲した初めての零戦となった。回収後、機体は修理され、アメリカ軍テストパイロットによってテスト飛行が行われた。結果、アメリカ軍は大戦を通して大日本帝国海軍の主力戦闘機であった零戦に対抗する戦術を研究することができた。

アクタン・ゼロは「アメリカにとってもっとも価値あるといってよい鹵獲物」であり、「おそらく太平洋戦争における最高の鹵獲物の一つ」と言われた。日本の元軍人・自衛官であり歴史家の奥宮正武は、アクタン・ゼロの鹵獲は「〔日本にとって〕ミッドウェー海戦の敗北に劣らないほど深刻」であり、「〔日本の〕最終的な降伏を早めることに多大な影響を及ぼした」と述べた。その一方で、ジョン・ランドストームなどは「伝説の戦闘機にうち勝つための戦術を考案するには古賀のゼロの分析が必要だった」という主張に疑問を呈している。

アクタン・ゼロは1945年に訓練中の事故により失われた。その破片はいくつかのアメリカの博物館に保管されている。

1942年6月、ミッドウェー海戦に連動して、日本はアラスカ南方沖のアリューシャン列島を攻撃した。角田覚治少将指揮の攻撃部隊は、6月3日およびその翌日の2回にわたりウナラスカ島のダッチハーバーを爆撃した。

古賀忠義一飛曹は、6月4日の攻撃隊の一員として空母龍驤から発艦した。編隊は一番機が遠藤信(えんどうまこと)飛曹長、二番機が古賀、三番機が鹿田二男(しかだつぐお)二飛曹。古賀と僚機はダッチハーバーを攻撃し、アメリカ軍の飛行艇PBY-5Aカタリナ(パイロットはバド・ミッチェル)を撃墜、生存者を機銃掃射した。この最中に古賀機は損傷を受けた
致命弾は潤滑油系統を切断し、機体から間もなく油が漏れ出した。古賀はできるだけエンジンの停止を防ぐため速度を落とした。

「3機の零戦は緊急着陸場所に指定されていた、ダッチハーバーの東25マイル〔約40km〕にあるアクタン島へ向けて飛行した。この島の付近が日本軍潜水艦による墜落した搭乗員の救出地点に割り当てられていた。アクタンに着いた3機はブロード湾から半マイル内陸にある草深い平地上空で旋回した。鹿田は草の下の地面が堅いと思ったが、2回目の上空通過時に水が光っていることに気がついた。彼はすぐに古賀は胴体着陸しなければならないと思った。しかし、その時にはもう古賀機は主脚を下ろしており、着陸寸前だった。」

主脚は水とぬかるみにはまり、そのため機体はひっくり返り、滑りながら停止した。この着陸で機体はほとんど無傷のままだったが、古賀は、おそらく衝撃で首の骨を折ったか頭を強打して死亡した。上空を旋回していた僚機は、敵地に着地した零戦はこれをすべて破壊すべしという命令を受けていたが、彼らには古賀がまだ機内で生存しているかどうか分からず、彼ら自身で古賀機を射撃・破壊することができなかった。最終的に、彼らは機体の破壊をせずに帰投することを決めた。搭乗員救出のためにアクタン島沖に配置されていた潜水艦は、アメリカ軍駆逐艦ウィリアムソンに追い払われるまで、古賀を探し続けた。

墜落現場は通常の飛行路の視野外であり、海上からも見えなかったため、1か月以上気づかれず、そのままになっていた。7月10日、アメリカ軍ウィリアム・ティース中尉が操縦するPBYカタリナがその残骸を発見した。ティースのカタリナは、推測航法による哨戒中に機位を失ってしまった。彼はシュマージン諸島を把握し、機首の向きを変え、アクタン上空を通過しダッチハーバーに直行するコースをとって戻り始めたが、その途上で機長のアルバート・ナックが古賀機の残骸を発見した。ティースの機は墜落現場上空を旋回し、地図上の位置を確認して報告のためダッチハーバーへ帰投した。ティースは彼の指揮官であるポール・フォーリーに対し、回収チームとともに現地へ向かわせてくれるよう説得した。翌日、チームは残骸を検分するために離陸した。海軍カメラマン助手のアーサー・W. バウマンが彼らの作業を撮影した。

1942年7月。現地に到着すると、古賀の遺体はチームで一番小柄だったナックによって機体から引き出され、なにか情報価値のあるものがないか探された後に簡単に埋葬された。検分の後チームはダッチハーバーに帰還し、ティースは機体が回収可能であることを報告した。翌7月12日、ロバート・カームス中尉指揮の回収チームがアクタンへ派遣された。チームは古賀を近くの丘にキリスト教式で埋葬し、機体の回収作業を開始した。しかし、重機を使用することができず(運搬船が2つの錨を失ったため重機を降ろすことができなかった)、作業ははかどらなかった。7月15日、3回目の回収チームが派遣された。今度は、重機を使って機体を損傷させずにぬかるみから引き出し、近くのはしけに牽引することができた。機体はダッチハーバーへ運ばれ、上向きに起こされ、洗浄された。

アクタン・ゼロは輸送船セント・ミヒエルに積み込まれ、シアトルへ向けて運ばれ、8月1日に到着した。そこから荷船でサンディエゴ付近の海軍航空基地ノースアイランドへ運ばれ、慎重に修理が行われた。この修理は、「大部分が垂直安定板、ラダー、翼端、フラップおよびキャノピーの整備だった。主脚柱の切り離しは広範囲にわたる作業が必要とされた。住友製三翅プロペラは化粧仕上げを施され、再利用された。」日の丸のラウンデルは、アメリカ軍のインシグニアに塗り替えられた。機体は、自称土産物ハンターによる被害を阻止するため、24時間体制で憲兵の警備下に置かれた。機体は9月20日に再飛行可能となった。
1942年9月20日、エディー・R.サンダース少佐は、アクタン・ゼロのテスト飛行を開始した。彼は10月15日までの間に24回のテストを行った。サンダースは以下の所見を述べている:

これらの飛行では、我々が海軍試験で航空機に対して実施しているような性能テストを行った。最初の飛行で、我々が適切な戦術によればつけ込めるゼロの弱点が明らかになった。すぐに分かったのは、速度が200ノット〔時速約370km〕を越えるとエルロンが重くなり、そのためその速度でのローリング機動が遅く、操縦桿の操作に大きな力が必要だということだった。左へのロールの方が右よりやりやすかった。また、フロート式キャブレターのせいで、マイナスGがかかるとエンジンが停止した[注 1]。我々は今、ゼロに後ろを取られ、逃げることのできないパイロット達のための答えを得た。〔操縦桿を前に倒し〕マイナスGをかけて垂直急降下し、できればゼロのエンジンが停止している隙に距離を開ける。200ノットくらいで、ゼロのパイロットが照準をあせる前に右に激しくロールする。

後のテスト飛行では、海軍支援施設アナコスティアの飛行テスト責任者、フレデリック・M. トランペルが零戦を飛ばし、サンダースが米軍機で同時に同一の機動をして行われた。この後、メルヴィル・“ブーギー”・ホフマンがさらに格闘戦のテストを実施した。

海軍によるテストの後、零戦は海軍航空基地ノースランドから海軍支援施設アナコスティアへ送られた。1944年、機体は太平洋戦線へ向かうパイロットの練習機として再びノースランドへ送られた。グアムの戦いで零戦五二型が鹵獲され、後にこれも使用された
一部で、鹵獲した零戦からの情報がグラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機の設計に利用されたと述べられることがあるが、F6Fの設計、発注、および試作機の初飛行はアクタン・ゼロの発見前にすでに行われており、F6Fの量産第一号機の初飛行は1942年10月4日で、アメリカ軍によるアクタン・ゼロの第1回テスト飛行のわずか2週間後である。零戦のテストはF6Fの設計に影響を及ぼすことはなかったが、右ロールおよび急降下時の欠点など零戦の操縦特性に関する情報は提供され、それがF6Fの性能向上とともにアメリカ軍パイロットが“太平洋の戦況を変える”のに役立つと高い評価を得た。アメリカ軍エースケネス・ウォルシュおよびR.ロバート・ポーターは特に、この情報から得られた戦術のおかげで命拾いしたと評している。零戦を発見したPBYカタリナ隊の指揮官で後に中将に昇進したジェームズ・サージェント・ラッセルは、古賀の零戦には「極めて大きな歴史的意義があった」と述べた。ウィリアム・レオナードもそれに賛同し、次のように述べた。「鹵獲したゼロは宝物だった。私の知る限りその必要性が非常に差し迫っている時に、これほど多くの秘密を解き明かした鹵獲兵器は他にない。」

一部の歴史家は、アクタン・ゼロが太平洋における空中戦に与えた影響の大きさについて異論を唱えている。例えば、ジョン・サッチが考案しアメリカ軍パイロットが対零戦戦闘において大きな成功を収めることになった戦術「サッチウィーブ」は、真珠湾攻撃以前に、中国からの零戦の性能レポートに基づいて考え出されたものである。

古賀はおそらく千鳥ケ淵戦没者墓苑に安置されている。古賀のゼロの鹵獲および飛行テストは一般に、謎の飛行機の秘密を白日の下にさらし、ただちに凋落へと導いたことから、連合軍にとって素晴らしい幸運だと評されている。この見地にたてば、連合軍パイロットは、それからのみ、すばしっこい敵への対処法を学んだことになる。日本人もそれにまったく同感するが、それでもテスト報告の恩恵を受けずに珊瑚海、ミッドウェー、およびガダルカナルでゼロと闘った海軍パイロットは、伝説的な戦闘機にうち勝つために古賀のゼロの分析を必要としたという主張には同意しないだろう。彼らにとって、ゼロは長く謎の飛行機のままではなかった。その独特の特性に関するうわさ〔情報〕は戦闘機パイロットの間ですぐに広まった。実際、ゼロのテスト中の10月6日に〔アクタン・ゼロのテストパイロット〕トランペルは非常に意味深い発言をしている。「この機体の全体的な印象は、まさしく情報部が最初に作成したもの通りだ。その性能も含めて。」





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伊藤 博文 あなた、頭いいね。よくそんな連想ができるね。 (15/06/15 23:19)
佐藤夫人 ロズウエルのUFO事件も本当だったりして (15/06/10 00:26)


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