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不信のとき

Author:伊藤 博文 ( Profile )
心に愛がなければ、いかなる言葉も相手の胸に響かない。
    〜聖パウロの言葉より〜

 ■ 2010/04/15 (木) レイモンド・A・スプルーアンス


スプルーアンスという提督は類型の少ない提督だ。誰もが、戦略家としての冴えと荒々しいまでの実行力を認めざるを得なかったキングのようなタイプではない。明哲保身型(めいてつほしん)で人を見る目がたしかで、名航海局長(航海局は太平洋戦争の初期に人事局と名称を改正)といわれたニミッツ・タイプでもない。."ブル"と仇名され、闘志むき出しのリーダーシップを発揮するハルゼー・タイプでもない。リファインされた紳士型という点で、ニミッツと共通点があるかもしれない。しかし、ニミッツのように、合衆国艦隊の先任参謀、戦艦戦隊司令官、航海局長といったいわゆるエリート・コースを歩んできたわけではなく、スプルーアンスに参謀長として長く仕えたカール・ムーア大佐によれば怠惰(たいだ)といってもいいような面がある。精励格勤型(せいれんかっきん)ではない。

 キングとかハルゼーのように単純な軍人タイプだとわかりやすいのだが、この二人のように単純タイプではない。キングやハルゼーやニミッツのタイプは、大きな組織のなかで仕事をしたことのある人なら、それに近いタイプの人物をすぐに何人か指折り数えることができるだろうが、スプルーアンス型となるとちょっと頭をひねるのではなかろうか。スプルーアンスは身体つきも華奢(きゃしゃ)なら性格も内気なタイプ。精力的に仕事をさばくタイプでもない。兄方によっては、前述のムーア大佐の言のように、怠惰と思われても仕方がないところもある。人間の性格形成には幼時体験が大きな影響を与えるという。

 キングの父親は、勤勉で実務の修得に熱心、かつ強い性格の持ち主で、現場作業者のリーダー(職長)だった。ハルゼーの先祖は代々船乗りで船長を多く出し、父親は著名な海軍軍人だった。ニミッツは母の胎内にあるときに父が死んでいるが、祖父が彼をかわいがり、一族の温かい目のなかで育っている。スプルーアンスが育った家は変わっていた。父親は、気は優しいのだが無口のはにかみ屋で生活能力のない、世捨て人も同様で職業を持たなかった。母親はイタリアに留学したことがあり、育児よりも自分の知識欲を満たすことに熱中するタイプ。出版社に勤め、雑誌の編集に精力を注ぐ、という人だった。両親とも子供には無関心だった。その上、六歳のとき、病弱で知恵遅れの弟が生まれると、母方の祖父母のところへ預けられた。

 この家は裕福だったが、祖父が破産して広大な邸宅は他人の手に渡り、多くの使用人もひまを出され、ふたたび父母の家に戻っている。母の収入だけで生活している家の青年が、上級学校に進むには、学資のいらぬ軍の学校しかなかった。どう見ても、軍人タイプではない生い立ちなのだ。アナポリス時代も目立たなかった。一九〇七年(明治四〇)組で、卒業席次は二〇九人中二一番。アナポリス時代の友人によると、スプルーアンスは、「どちらかといえば、生真面目な顔のはずかしがり屋。生娘(きむすめ)のような純情なところがある……」青年だった。

 卒業後は電気関係の技術士官としての道を歩んだ。大手電気会社とのコンタクトが多かった。このまま海軍にいても、うだつが上がりそうもない。転職を考えるようになり、ついに義父に相談した。義父は娘のスプルーアンス夫人に「室則の主人は正直すぎて、駆け引きの多いビジネスの世界には全然向いていないぞ」と忠告した。結婚後も破産した祖父の娘(叔母)と母に仕送りを続けねばならず、経済的に苦しかった。このようなこともあり、金銭の出入りには非常に細心だった。軍帽なども使えるだけ使い、ムダな出費はできるだけ避けた。

義父の遺産五万ドルが妻のものになると、これを株式と公債で運用することを奨め、四〇万ドルに増やした。自分の給与の運用にも細心の注意を払って、のちには六〇万ドルの資産を作り上げている。金銭に無頓着(むとんちゃく)だったハルゼーが、病弱の妻のため戦後、元帥の年金があるにもかかわらず手元不如意(ふにょい)で、いろいろな職業のポストを探さざるを得なかったのと対照的だった。若手士官のとき当時めずらしかった自動車を無理して員ったり、軍服は若いときから仕立て代が特別高いので有名だったニューヨークの一流洋服店でいつも仕立てさせていたキングとも違っている。

 このようなスプルーアンスだったが、駆逐艦の艦長をやればちゃんとやる。戦艦の艦長をさせても合格点をとる。ミッドウェー海戦では病気でダウンしたハルゼーの代役をやらされるが、周囲が驚くほどの指揮ぶりを発揮して大勝利を得る。頼りないと思っていた人々も兄直す。マリアナ沖海戦でも、大上陸船団と大艦隊を率いて見事な指揮ぶりを発揮する。太平洋戦争開戦時に、誰がこのようなスプルーアンスの活躍を予想しただろうか。キングの人物評は酷烈(こくれつ)きわまるもので、同僚のマーシャル陸軍参謀総長、アーノルド陸軍航空隊司令官、先輩のリーヒ統合参謀長会議議長はもちろん、英軍のトップ層にも厳しい評価を下していた。部下はもちろんだ。

 ニミッツヘの評も厳しかったし、ハルゼー評はさんざんだった。キングはハルゼーをクビにしようと何度も考えたが、ハルゼーの国民的人気を考えるとそれができなかった。キングが評価した数少ない海軍士官がスプルーアンスであり、英海軍のマウントバッテン中将だった。キングによれば、ハルゼーは「頭が悪く」、スプルーアンスは、「米海軍提督のなかではおそらくもっとも頭がいい」というのだ。キングはニミッツを信用しておらず、主要作戦のつど自身がサンフランシスコに飛び、ニミッツを呼んで細かい点までダメを押し、自分の意思を念入りに伝えている。スプルーアンスのキャリアで特色があるのは、海軍大学校関連のキャリアが長いことだ。海軍大学校を卒業したのち、二回この学校の教官を務めた。

 最初は通信教育部門の責任者、二回目は戦術教育班の班長。戦後は海軍大学校の校長だから、四回この学校に籍を置いたことになる。戦後の海軍大学校校長は、自身が、強くニミッツ作戦部長に望んで就いたポストだった。この海軍大学校のキャリアが多いことをみても学者肌のところがあった。学者肌で大海戦を勝利に導いた海将でもある。このような人物は歴史上めずらしいのではなかろうか。米海軍の先輩マハン大佐は学者肌だったが、実戦の経験はなく「海将」というイメージにはほど遠い。ファラガットは勇将タイプだ。英海軍のネルソンも日本海軍の東郷元帥も学者肌のところは微塵もない。

 マリアナ沖海戦でのスプルーアンスの作戦指導は、サイパン上陸軍の輸送船団とその支援部隊を第一とし、日本側機動部隊の撃破を第二とした。ミッチャーの高速空母群をまず防御に使い、それから攻撃に移らせたため、日本の機動部隊を取り逃がした。このスプルーアンスの指揮に対して批難の声が上がった。「パイロットのキャリアのない者に空母部隊を指揮させるからこうなったのだ」という声もあった。

キングはスプルーアンスの決断を支持して次のようにいっている。「この作戦の主目的はマリアナ諸島の占領にあったから、あらゆる犠牲を払ってでも、敵の攻撃からサイパン上陸部隊を守らなければならなかった」。キングはこの直後、サイパンを訪れてスプルーアンスに、「君はよくやった。人が君にどういおうと、君の決定は正しかった」といっている。一九六九年一二月死去。サンフランシスコ湾を見下ろす海軍墓地に、ニミッツ、ターナーとならんで埋葬されている。

大日本帝國海軍は、ウィリアム・ハルゼー中将のピンチヒッターとして一九四二年六月のミッドウェー海戦で、空母二隻を主力とする第一六任務部隊を指揮し、フランク・フレッチャー少将の第一七任務部隊とともに日本海軍を破り、虎の子の空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍を海底の藻屑として、日本を敗戦への岐路に立たせた功労者である。


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